横浜開港と日米和親条約、日米修好通商条約(国交樹立と通商開始)

街歩きと横浜史
この記事は約11分で読めます。

開国と開港 -和親条約と修好通商条約-

条約締結と開国・開港

日米和親条約(神奈川条約)締結 -日本の開国-

1854(安政元)年に締結された日米和親条約=神奈川条約は、日本の開国と下田・箱館の開港、さらにはアメリカの最恵国待遇等を取り決めた条約です。

ペリー一行が現在の開港広場公園付近に上陸した後、神奈川県庁付近に設けられた応接場において(日米双方の代表間で)締結された条約だといわれていますが、開国については、その第一条で”日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之候事”という文言で表現されています。

日米和親条約に準じた条約は他三国(イギリス、オランダ、ロシア)との間でも締結されていますが、日英和親条約は”日米”と同年の1854年、日蘭・日露和親条約は1855年に締結されました。

日米和親条約(締結地名をとって、神奈川条約とも呼ばれます)をはじめとする各和親条約は、”世界の中の幕末日本”にとって全てのはじまりに位置する条約にあたる他、続く日米修好通商条約(を筆頭とする安政の五か国条約)締結への突破口となった条約にもあたります。

参考

安政の五か国条約締結 -横浜他開港-

1858年、アメリカを相手とする日米修好通商条約の締結によって、日本側は神奈川(=横浜)をはじめとする5港(ほか、箱館、長崎、新潟、兵庫=神戸)をアメリカに対して開港する運びとなりますが、日米修好通商条約締結後、時の江戸幕府は引き続き海外各国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)との間に同様の条約を締結したため、アメリカに対して開いた五港は英仏露蘭4国に対しても開かれる形となりました。

幕末期の日本が最初に締結した通商条約は、”四つの口”(=制限貿易)時代からの交易相手国であるオランダを相手とした日蘭追加条約ですが(出島での貿易制限規定緩和などが取り決められた条約です ※)、開国に続く”開港”を取り決めたという大々的な通商条約締結では、”和親条約”締結時同様にアメリカが突破口を開きます。

もとより、アメリカをはじめとする各国にとっての本命は“修好通商条約”締結による日本との通商開始であったことから、”和親条約”締結はあくまでそのための最初のステップとして位置付けられていました。

日英、日仏、日露、日蘭各修好通商条約は、全て”日米”と同年の1858年に締結されています。

五か国中フランスのみは”和親条約”の締結がありませんが、これは日仏双方に締結の意思があったにもかかわらず機会に恵まれなかったために起こった齟齬であったということ、さらにはフランスが日本との間で締結した”修好通商条約”の内容自体が(日英和親条約、日英修好通商条約で規定された)日英関係に準じていることから、”日仏修好通商条約”が日仏間にとっての開国・開港条約となりました(“日仏修好通商条約”には”和親条約”的な文言が盛り込まれています)。

“日米”を含めて安政の五カ国条約と呼ばれるこれら一連の通商条約では、一年後の1859年(の、各条約締結日)より締結内容が効力を持つことも(条約内に)定められていました。

参考

開港に伴ったハンデ -不平等条約としての”修好通商条約”-

安政の五か国条約は、諸外国に領事裁判権(日本国内で起こった外国人の犯罪を、日本の法律・法廷ではなく、当該外国人の母国の領事が母国の法律で裁く権利)を認めていた他、関税自主権(自国の関税を自国で決める権利)がなかったなど、明治維新後も長らく日本の足かせとなっていく不平等条約としての一面を持っていました。

ちなみに日米修好通商条約締結時のアメリカ側代表は、”和親条約”を締結したペリー提督同様に強硬な姿勢を持っていた、かつ”修好通商条約”締結の為にその地位に着任したという、米国総領事のタウンゼント・ハリスです。

そもそもということであれば、締結を強要された挙句、半ば仕方なしに締結したというような条約の中身が双方にとって対等なものであるはずはないのですが 笑、とにもかくにも各和親条約・修好通商条約の締結によって、列強の望み通りに(かつ、日本にとっては不利な形で)”世界に開かれた近代日本”が幕を開けることとなりました。

とはいえ、その後の展開まで全て欧米各国の当初の想定通りにことが進んだのかといえば、然に非ず。

“日本の開国・開港”はやがて半世紀の後には“世界の中の日本”台頭を現実のものとする、すなわち欧米各国にとっての”想定外”を生じさせることになるのですが、開国・開港の時点でそこまで想像できた人は、日本国内を始め世界のどこにもいなかったことでしょう。

条約締結後の横浜

貿易港としての横浜の成長・発展の跡は、開港広場公園内の碑石にも、その一端が刻まれています。

ところで、今をさかのぼること約150年ほど前。

開港広場において日本の開国への突破口を開いたのは、当時の国際社会では新興国だったアメリカ合衆国の13代大統領、ミラード・フィルモアの国書を持った米海軍・東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレイス・ペリー提督、つまりはアメリカでした。

ですが開港地における開港後の日本との関係においては、当時の世界の覇権国であるイギリスとの関係が色濃く残されています。

たとえば、”日本初の外資系企業”と言われる英一番館がイギリス系企業だったことの他にも、山手地区にはかつて英軍が陣取ったことに由来する陣屋坂がある、英国軍の軍楽隊員(ウイリアム・フェントン)の指導を受けた薩摩藩の軍楽隊が、日本で初めて吹奏楽(国歌・君が代)を演奏した地が山手公園傍にある、日本大通り横浜公園をイギリス人技師が設計したことや、日本初の鉄道敷設にイギリス人技師が関与していたこと等々。

開港当時はほぼ未開拓だったという丘の上の一等地(横浜山手)にもイギリスの跡がある、むしろ”イギリス”(他、フランスの跡も目立ちます)から今につながる歴史が始まっているのだというあたりも象徴的といえば象徴的ですが、開国に先鞭をつけたアメリカ、その後をリードしたイギリス(及びフランス)といったあたりに当時の国際情勢の縮図が見えてくるところも、”開港地ならでは”の史跡の在り方かもしれません。

横浜に色濃く残されたものとして一般的に知られている”アメリカの文化”(例えばジャズにまつわるお店、イベントなど)は、主には第二次大戦後に米軍の接収地等が発信源となったものだという、開港期ではなく戦後昭和由来のものです(ただし、他ならぬ開港広場の由緒の他、山手地区の女子教育に関するものや外国人墓地の創設、さらには”アメリカ山公園”の由緒など、開港期由来の文化・史跡も無いわけではありません)。

追伸として、2009(平成21)年(=横浜開港150周年の節目に当たる年)。

横浜市内(金沢区)の八景島北東部にあるシンボルタワー内には、日米修好通商条約締結を記念した”アメリカン・アンカレッジ記念碑”が設置されました。

参考

安政の五か国条約締結とその時代

対外的には五港の開港をもって”世界の中の日本”を現実のものとした安政の五か国条約でしたが、この条約の締結は、対内的には幕府(特に、時の大老・井伊直弼なおすけ)への強い批判を生むと同時に、国内情勢のさらなる混乱を誘発したという性格も併せ持っていました。

当時の日本国内には条約締結(=開国や開港)自体を良しとする土台(具体的な制度の他、世情的なもの)が未だ整っていなかったことや、幕府が紛争対応を誤ったこと等々、様々なことが原因になっていると考えられますが、要は日本も世界も時代の過渡期にあったのだということですね。

元々将軍継嗣けいし問題で幕府内部の対立があったところに”日米他修好通商条約の無勅許調印“(=朝廷の許しを得ないままの調印)問題が被って来た、という間の悪さもあったのですが、やがて幕府は14代将軍として慶福よしとみ家茂いえもちを立てたこと、および無勅許調印をゴリ押したことに対する一連の混乱を収める必要に迫られます。

大老・井伊直弼主導の”安政の大獄”は、欧米各国の開国・開港要求に始まるこれら一連の混乱を終息させるために取られた”力技”であり、”慶福を擁立し、開港する”という井伊直弼の施策に反対する勢力への一斉弾圧だったのですが、残念ながら(?)幕府や井伊の意に反し、逆にこのことが井伊直弼にとっての命取りとなってしまいました(1860=安政7年、江戸城・桜田門外の変にて、尊王攘夷派の水戸藩浪士らによって井伊直弼が暗殺されます)。

ちなみに将軍継嗣問題とは、嗣子しし(=跡継ぎ)が無かった13代徳川家定いえさだの後継として、1.血縁重視で徳川慶福よしとみ=後の家茂いえもちを立てるべきか、2.それとも実力重視で一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)を立てるべきかが争われた対立です。

14代将軍には徳川家茂が立てられ、開港に伴う通商も開始されたものの、幕府にとっての”弱り目に祟り目”が市井に強烈な衝撃を与えたという井伊直弼の死後、幕府主導の政策自体も、うがった見方をすればその衰退を思わせるものへとシフトチェンジを始めました。

江戸城下にて白昼堂々幕府の最高権力者が暗殺されたという一大事(=桜田門外の変)の他にも、一橋慶喜が(14代家茂の)後見人となったことで事実上”血統重視”がやんわり否定され、かつ”無勅許調印”が大問題となったことで幕府の独断専行も否定された、要はこの先も”これまでと同じ”はもはや通用しない、施政の在り方を明確に変えるべきだ、そんなことが明らかに自覚された瞬間でもあったでしょう。

それもまた時代が為した業だと言ってしまえばそれまでの話しですが、同じ江戸時代、同じ江戸幕府が統治する日本といったところで、開祖・家康在りし日の武断政治時代を思えば、隔世の感を禁じ得ないとすることが出来るところではあります。

1860年代、元号的には江戸時代最後の3元号、文久、元治げんじ、慶応の時代ですね。

幕末から現代へ

条約締結に端を発する一連の流れを俯瞰した場合、特に”安政の五か国条約締結”は単なる不平等条約締結に非ず、巡り巡って時の幕府に引導を渡すことにもつながった条約だと見ることも出来なくはありませんが、どの道幕府には”条約を締結しない”(=開国も開港もしない)という選択肢は用意されていませんでした。

拒否すべきではなかったし、拒否したくても出来なかったということで、幕政にとって、時の日本にとって、ここが大きなターニングポイントの一つとなって時代が進みます。

“今だからこそ”で改めて問い直すべき点があるとすれば、それは討幕の是非についてでしょう。

“桜田門外の変”後の幕府は、のちの15代将軍・一橋(徳川)慶喜を14代・家茂の将軍後見人とした上で、老中・安藤信正や薩摩藩の”国父”・島津久光などが主導する”公武合体“(朝廷と幕府が一体となって国を統治していくべきだとする主張)をベースとしたいわゆる”文久の改革“を実施、幕藩体制の抜本的な改革に乗り出すことになるのですが、ほぼ同時期以降、当時の帝のお膝元であった京都では”反幕府”のテロや暴動が先鋭化してくるなど風雲急を告げる”幕末”色が鮮明となり、やがて長州征伐から戊辰戦争明治の”御一新”へと繋がって行きました。

既に開国も開港も済んでいて、国際交流も始まっていた、幕府自体の抜本的な改革にも端緒が開かれていた、そんな時に”攘夷”や”テロ”の果てで一から全てを(言葉を選ばずに言えば、”素人”の手で)やり直す必要が本当にあったのか、ということですね。

この点を考えるにあたっては、一つのヒントとして幕末以降の西郷隆盛の挙動がとても象徴的ではあるのですが、恐らくはなかったのでしょう。

新政府樹立が公武合体に勝る選択だったというのであれば、討幕勢力の総大将が幕府を力技で倒した後、ほどなく新政府を放り出し、やがて新政府にとっての最大の敵となったというような行動はまかり間違ってもとらなかったでしょうからね。

“力こそ正義”の理で動かされた(明治へと続く)幕末政治の是非は、約一世紀の後に国際社会において改めて(皮肉なことに、今度は国自体が敗者となった上で)問われ、然る後に今日の日本へと繋がりますが、幕末から”御一新”にかけての日本にあっては、そのことは未だ”神のみぞ知る”未来でしかありませんでした。

あくまで私見ですが、この時期の歴史一般については、今日日の日本のカオスな現実を見るにつけ、再考するだけの価値があるところ(この先のより良い未来への、某かのヒントを与えてくれるところ)ではないかと感じます。

参考

アクセス

“日米和親条約締結の地”碑

アメリカンアンカレッジ(日米修好通商条約締結の地)

タイトルとURLをコピーしました