【横浜街歩き/日本大通エリア】開港広場一帯 その1 -開港広場、旧イギリス総領事館、横浜海岸教会-

横浜街歩き

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【横浜街歩き/日本大通エリア】開港広場一帯その1 -開港広場、旧イギリス総領事館、横浜海岸教会-

開港広場

山下公園側から見ると、開港広場前の交差点付近は、とてもそれっぽく見えます。

上写真中央の塔が”Kingの塔”こと神奈川県庁本庁舎、その手前にあるのが旧・イギリス総領事館だった、現在の横浜開港資料館です。

開港広場は交差点左側、交差点右側は道路標示にもありますが、大さん橋方面です。

交差点付近の風景は、夜もぼちぼち開港場、港町の夜っぽい雰囲気がありますが、開港広場公園自体は昭和57年(1982年)、現在の形に整備されました。

桜の季節の街歩き夜桜見物など、これまでにも幾度か取り上げてきた一帯ですが、開港広場は日本大通りのすぐ隣にある、「ここから横浜が始まった」「ここから日本の近代化が始まった」一帯です。

そんなことを感じさせる碑が、広場の手前に用意されています。

時の江戸幕府にのらりくらりとかわされたのち、痺れを切らしたアメリカが軍事力を背景とした威嚇と共に開港と開国を迫り、そのことを具体的な形にするために日本に上陸した、まさにその上陸地点がこの開港広場付近にあたります。

開港広場付近に乗り込んだあと、現在の県庁敷地内にある「神奈川運上所跡地」付近にて、日本側代表とアメリカ側代表は、日米和親条約を締結するに至りました。ちなみに日米和親条約は、神奈川(宿付近の横浜村)にて締結された条約であることから、別名で神奈川条約とも呼ばれます。「横浜条約」とならなかったのは、当時の知名度・ネームバリューとしては、横浜以上に、圧倒的に神奈川の方が上だったためですね。

日米和親条約は、日本との交易開始を具体的に取り決めた日米修好通商条約への突破口となった条約にあたりますが、日米修好通商条約は、他列強と締結した通商条約のプロトタイプとなった条約にあたります。

遡って、日米和親条約=神奈川条約は、「ただ単に一番最初」ではなく、近代日本の外交を考える上で原点に位置する対外条約だったとなるわけです。

ちなみに日米「和親条約」をベースとして日米「修好通商条約」が結ばれることとなったと言う形式は、他列強(イギリス、ロシア、オランダ)との外交関係においても原則となって進みます(フランスのみ、日本との間に和親条約を締結していません)。

和親条約の後で結ばれた通商条約は、安政の「五カ国」条約とも言われているように、結局アメリカを含む五カ国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)と締結された、不平等条約として悪名の高い条約でもあります。

関税自主権がなく、領事裁判権が認められたという「不平等」は、不平等条約であるというよりは、植民地化一歩手前条約みたいな感じではないでしょうか。外国産の商品が外国の都合で値付けされてバンバン日本に入って来る(関税率も外国が決定する)、外国人が日本国内で何かやらかしたとしても、領事が本国の法律で裁いてしまうということが容認された条約ですからね。

実際安政の五か国条約は、のちに明治維新を迎え、統治体制を刷新したた日本にとって、長らくの足かせともなっていく条約なのですが、兎にも角にも、日米和親条約の締結が近代日本にとっての一大転機をもたらしました。

そんな観点から、まさにこの地が横浜の始まりである、というよりは日本の近代化の始まりの地とされているわけですが、ここから始まった対外関係は、結果として横浜にとっても大きな広がりを見せることとなります。

その帰結も、現在開港広場内の碑石に残されています。

当時の足跡にしても今に残されているものが少なくなく、まさにペリー一行が乗り込んできた地点にあたるとされる開港広場界隈の他、その周辺を取り巻く施設にしても、当時からの時間の流れを感じさせるものので固められています。

ただし、残されるべくして残されてきた一帯であるというよりは、開港以来2度ほどの「霧消してしまう危機」(関東大震災被災、GHQによる接収期)を経て現在に至っている一帯でもあるので、ただ歴史と伝統が感じ取れるというよりは、どこか数奇な運命を感じさせられる佇まいともなっています。

要は「色々あって、こうなったんだろうなぁ」という、伝統感と急造感が混在している一帯にも見えるということですね。

 

横浜海岸教会

開港広場を交差点側から臨んだ場合、最も気になる建物ではないでしょうか。

開港広場のすぐ隣にあるのは日本初のプロテスタント系教会である、横浜海岸教会です。常日頃というよりは、特に桜の季節に見栄えがします。噴水の背景が、満開の桜と共にある教会となるためですね。

【横浜街歩き/横浜夜桜watching】 開港広場前
【横浜街歩き/横浜夜桜watching】 開港広場前 山下公園とは目と鼻の先にある開港広場、奥にある噴水前にも桜が咲きます。 バックに教会(日本初のプロテスタント教会である、横浜海岸教会)があるので、独特の映え方をする桜ですね。 ...

他、開港期の教会建設については、現在山手本通りにあるカトリック山手教会の初代聖堂である横浜天主堂跡が、現在も中華街のそば(かつて天主堂が設置されていたのは横浜居留地80番地、現在の現横浜市中区山下町80)に残されています。

 

旧イギリス総領事館(現・横浜開港資料館)

日本大通り側から見ると、ちょうど開港広場が庭のように見える位置関係にあるのですが、開港広場のすぐ隣には旧イギリスの総領事館、現横浜開港資料館が置かれています。

旧英国総領事館の由緒書きと、

開港資料館の表札。

英国総領事のかつての公邸は現在港の見える丘公園内にある横浜市イギリス館、開港広場横にあるのは総領事館です。双方の違いは、総領事の「家」と「職場」の違いですが、総領事の家に当たるのが「公邸」、職場に当たるのが「館」です。

敷地内には、ペリー来航時の様子がプリントされた石板が置かれています。

現在、開港資料館の中庭に立っているたまくすの木は、この絵の右側に描かれた木から育った木だといわれています。

開港広場側から、少し中に入ったところから。たまくすは右手です。

海側に進んでも出入り口がありますが、

日本大通り側からも開港資料館に出入りできます。

開港広場において日本との通商開始の突破口を開いたのは、当時の国際社会の新興国だったアメリカ(司令長官・ペリー提督旗下のアメリカ東インド艦隊)ですが、その後の日本との関係において最有力の立場にいたのは英国でした。

これは、そもそも当時のアメリカがイギリスから独立して間もない国であり、欧州の争いに対しては不干渉を貫くこと(モンロー・ドクトリン)を国是としていた一方で、欧州で長年のライバル関係にあった英仏が、幕末日本でも、薩長=討幕勢力側に付いた英国、幕府側に付いたフランスといった形で、真っ向から対立したことに遠因があります。

アメリカが地味に日本との外交・通商を進めていく傍らで、最終的に幕府が倒され維新政府が成立したことによって、当時(19世紀半ば)の世界で最強だった英国は、日本でも最も影響力のある国となって行くわけです。

特に日露戦争前夜から、第一次世界大戦後にいわゆる戦間期外交が始まるまでの時期においては、日英同盟を柱としたイギリスとの友好関係が国際社会での生命線になっていくんですが、開港期から昭和の初めに至る横浜の跡を追っていくと、当時の事情を裏書きするかのように、イギリスの影響力が強いことがわかります。

たとえば開港広場のすぐ横に総領事館、丘公園のど真ん中に総領事公邸を持っていたといったことの他にも、山手地区にはかつて英軍が陣取ったことに由来する陣屋坂がある、英国軍の軍楽隊員(ウイリアム・フェントン)の指導を受けた薩摩藩の軍楽隊が、日本で初めて吹奏楽(国歌・君が代)を演奏した地が山手公園傍(妙香寺)にあるといったように、そこかしこに足跡を残しています。

 

英一番館跡

交差点のすぐ向こうには、日本初の外資系企業である、ジャーディン・マセソン商会の日本支社跡があります。同商社は、通称で”英一番館”と呼ばれていたようです。

ちなみにジャーディン・マセソン自体は、かつてのような単体の商社としてではありませんが、イギリスの企業グループの持株会社として現存します。

現在でも世界的な大企業ではあるのですが、本社が香港に置かれているという点は、昨今の情勢からかなりの不安要素であるといえるかもしれません。

そんなジャーディン・マセソンのホームページ、社史の2ページ目には横浜の記載がありますが、横浜への進出について”In 1855, JM & Co inaugurated the steamer cargo line from Calcutta to the Far East. The Firm became the first foreign trading house to establish in Japan by acquiring Lot No. 1 in the first Yokohama land sale”(1855年、ジャーディンマセソン商会はカルカッタから極東への貨物船ラインを開設し、日本においては横浜で、海外勢で初めて土地を取得すると、日本初の外資系企業となった)とまとめられています。

英一番館の「一番」とは、かつての山下町の地番を意味します。「山下町一番地」ということですが、この住所は現在も引き継がれていて、シルクセンターや英一番館の跡地があるあたりが山下町一番地となっています。

現在、かつての会社とは別の同名のレストランや、その名を連想させる”英一番街“というショッピングアーケードがこの付近にあります。

余談ですが、当時のジャーディン・マセソン商会に雇われ、同商会の長崎支社=グラバー商会を立ち上げたのが、若きスコットランド商人・トーマス・ブレーク・グラバーです。

早い時期から生糸が主力となっていた横浜での貿易に比べ、長崎での貿易では雄藩を相手とした武器・弾薬・軍艦などの取引が主力となるなど、取引自体が当時の時勢を思わせるものだったという点に、長崎での貿易の顕著な特徴があります。

当時グラバーが居住していたグラバー邸を中心としたグラバー園は、現在も長崎の有名な観光スポットになっています。

 

アクセス

開港広場

横浜海岸教会

旧イギリス総領事館(現・横浜開港資料館)

英一番館跡

 

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