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早雲寺(箱根湯本駅最寄り、後北条氏と”一夜城”の跡、北条五代の墓)
早雲寺
about 早雲寺
早雲寺(箱根湯本観光協会 “早雲寺“)は、北条早雲の実子である後北条氏二代目当主・北条氏綱が、早雲の命によって1521年に創建した禅宗(臨済宗大徳寺派)のお寺であり、後北条氏の菩提寺です。
北条早雲に始まる小田原の北条氏は、鎌倉で代々幕府の執権を勤めた北条氏の後裔ではなく、北条早雲こと伊勢新九郎盛時(あるいは伊勢宗瑞-そうずい-)を祖とする北条氏で、”後北条氏”とも呼ばれます。
鎌倉時代の”後”の北条氏=後北条氏の意味ですね。
“執権”の北条氏は、源頼朝の妻であった北条政子の家系である伊豆の在地豪族にルーツがありますが、伊豆と鎌倉の間に位置する小田原を拠点とした伊勢新九郎=北条早雲の出自には、長らくの通説であった”一介の素浪人から下剋上で全国有数の戦国大名になりあがった”説と、”足利将軍家につかえた武将・伊勢氏の嫡流である”(元々無名の素浪人などではなかった)とする近年の有力説、大きく二説があるようです。
早雲寺を創建した北条氏綱は、伊勢新九郎に始まる”後北条氏”を”伊勢氏”から”北条氏”に変えた人物であり、その遺言で「勝って兜の緒を締めよ」の名言を残した人物としても知られています。
その北条氏綱が創建した早雲寺は、残念ながら第五代当主・北条氏直の時代、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失してしまい、その後現在の早雲寺が江戸時代(1627年=寛永4年)に再興されました。
箱根湯本と後北条氏
『箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まった』と言われていますが(参考:箱根全山公式サイト “早雲寺“)、箱根の隣町である小田原は、北条氏五代の世では、関東地方の政治・経済の中心地でもあったようです(小田原市公式サイト “早雲出自の謎“)。
伊勢新九郎が拠点を小田原に移した1495年から、後北条氏五代当主・北条氏直が豊臣秀吉の小田原攻めに屈した1590年までの約100年間、戦国時代の話しですね。
いわゆる戦国時代とは応仁の乱(1467~77年)後大坂夏の陣(1614年)までの間、国家統治を担う能力のある安定した中央政権が存在しない時代のことで、室町後半・安土桃山・江戸最初期の各時代とも重複します。
箱根湯本が持つ”門前町として始まった歴史にしても、元々古代より箱根の地が有していた東国霊場としての性質や、特に鎌倉時代以降顕著になった政治秩序と共にあったという地政学的特性、さらには早雲寺再興に尽力した北条氏一族の力添えに依ってくる部分が大きかったようです(参考:神奈川県立歴史博物館 “開基500年記念 早雲寺-戦国大名北条氏の遺産と系譜-“)。
現在の早雲寺にも、戦国時代や江戸時代の文化を彷彿とさせる多くの文物が伝えられています(参考:箱根湯本観光協会 “早雲寺“)。
早雲寺・惣門
早雲寺の惣門(お寺の一番外側に位置している門)は、箱根登山バス・箱根旧街道線(公式サイト)のバス通り沿いにあります。
“早雲公園前”バス停傍にある惣門の脇には、字の部分が削れているので読み取れない部分が結構あるのですが、”早雲寺””北条五代の墓”等々と書かれた、早雲寺の由緒書き的な碑石が置かれています。
バス通りから惣門までの距離は少々、その向こう側には中門があるのが見えます。
早雲寺中門、梵鐘、本堂
バス通りから一本入った通りに面するように作られている中門は、つい最近、2019年に竣工したようです(参考:伝匠舎ホームページ “早雲寺中門 新築工事竣工”)。
中門を入るとすぐ右手にあるのが、
現在県指定重要文化財となっている、早雲寺の梵鐘(ぼんしょう)です。
鋳造されたのは鎌倉時代末の1330年で、その後天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、石垣山の一夜城で使われた梵鐘でもあるようです。
中門を入って左手奥にあるのは、
現在箱根町指定の重要文化財となっている、早雲寺の本堂です(現在、拝観はできないようです)。
本堂の、向かって左横を奥に進むと、
本堂の裏手、早雲公園との間に枯山水の庭園がありますが、現地の案内書きによると、江戸時代初期に、かつての戦国時代の庭園が再現されたもののようです。
北条五代の墓、宗祇の墓
早雲寺の向かって左手には墓地がありますが、その一画に、後北条氏五代までの当主の墓があります。それぞれ、初代より順に、向かって右側から、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直です。
始祖・北条早雲のお墓には、
北条早雲ではなく、伊勢新九郎とその名が刻まれていますが、
向かって左に並んだ二代氏綱以下、五代当主氏直までのお墓は、全て名字が”北條”でまとめられています。
すぐ傍には、室町時代を代表する連歌師、宗祇(有田川町公式サイト “「心の連歌師」宗祇法師“)の墓があります。
その後の後北条氏と”義理の縁”
秀吉の小田原攻め(1590年)は、後北条軍を討つべく豊臣秀吉が石垣山に一夜城(参考:小田原市公式サイト “石垣山一夜城“)を築いたことや、秀吉軍に対峙した後北条軍の軍議の(事後の創作が捏造・揶揄した)あり方が、後世に小田原評定の成語を残したことで有名な戦いです。
五代当主・氏直の代で秀吉の小田原攻めにあって小田原城が落城、小田原を拠点とする戦国大名としての後北条氏は終焉の時を迎えますが、後北条氏の滅亡後(1590年)に関東に移封され、江戸を拠点としたのが後の豊臣政権五大老筆頭、さらには江戸幕府の開祖となる徳川家康です。
後北条氏は四代(先代)当主・北条氏政他に開戦責任が問われた後、五代当主北条氏直が豊臣臣下の大名として大坂にて復権を果たしていますが、北条氏直の復権は、氏直自身に家康と義理の縁戚関係があった(氏直の正室が、家康の娘である督姫-とくひめ-だったという関係です)ことによって実現したようです。
1591年の氏直の急逝以降は、後北条氏二代当主・氏康の五男である氏規(うじのり)が始祖となった傍系の狭山藩が、後北条氏の後裔として江戸時代を通じて存続しました。
余談ですが、”義理の縁が救った命”ということでは、ほぼ同時代、かつ家康・秀吉周辺の人間関係には、ほかにも同種の話しがあります。
「義母が徳川家康の実子、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の娘(千姫)だった」という縁によって命を救われたという、鎌倉にある東慶寺の20世住職・天秀尼のエピソードがそれに該当しますが、天秀尼の義母である千姫はまた、豊臣秀頼(豊臣秀吉の側室・淀殿の子)の正室でもありました(参考 “東慶寺と天下人の縁“)。
箱根湯本界隈
箱根湯本界隈(湯本小学校跡、箱根電燈発電所跡、小田原馬車鉄道・電気鉄道湯本駅跡)