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【00年代の函館 その6】土方歳三と五稜郭、戊辰戦争
土方歳三最期の地/五稜郭
“土方歳三の最期の地”(函館市公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“)付近に置かれていた、雪の季節の土方歳三像です。かつて土方歳三の像は外に出されていたはずなのですが(というよりは、写真を見ればわかる通り、外部に置かれていたのですが)、現在は五稜郭タワー内に置かれているようです(参考:函館公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“、五稜郭タワー “土方歳三のブロンズ像“)。
戊辰戦争(後述)最後の戦いとなった箱館戦争が終結する約一週間前。箱館政権の陸軍奉行並を勤めていた元新選組副長・土方歳三は、新政府軍の総攻撃を迎え撃ち、幕府軍側が築いた一本木関門傍にて壮絶な戦死を遂げたとされています(ただし現在残されている”関門跡”は、実際に土方歳三が戦死を遂げた関門跡とは若干異なる位置にあるようです)。
“最期の地”碑は現在も”幕末”ファンの聖地となっていて、四季を通じて訪問者が絶えることが無いようです。
毎年土方歳三の命日(5月11日)や五稜郭祭(5月中旬の土日。公式サイト)が近づくと、”最期の地”付近の桜が満開になるのだそうです。確かに、平年の函館の桜の開花期は4月下旬、満開が5月の第一週辺りだとされているので、時期的にはぴったり当てはまるには当てはまります。石碑傍の桜は”歳三桜”と呼ばれていた(「そう呼ばれて親しまれている」という話しを伺った)記憶がありますが、なんとも風流な解釈ですよね。
JR函館駅からもほど近い”最期の地”からは若干距離がありますが、五稜郭タワー(公式サイト)から望んだ五稜郭(北海道観光公式サイト “五稜郭公園“)の雪景色です。
戊辰戦争
戊辰戦争とは?
俗にいう”明治維新”の成立期。
鳥羽・伏見の戦い(慶応四年=1868年1月)に始まり、五稜郭が新政府軍の最後の攻撃目標とされた箱館戦争=五稜郭の戦い(明治二年=1869年5月)で幕を閉じた戦いは、戦争勃発年である1868年(慶応四年=明治元年)の干支(戊辰=つちのえたつ)を取って、戊辰(ぼしん)戦争と総称されます。
戊辰戦争では、旧幕府軍(幕府陸軍・幕府海軍の他新選組、彰義隊、仙台藩、越後長岡藩、会津藩等)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩等)が、約一年半の間武力衝突を繰り返しました。
果して戊辰戦争とはどんな戦争だったのかという”戦争の本質”を巡る部分では、旧幕府側、新政府側、どちらに義が宿ると判断するかによって今もなお解釈が割れることがあります。そもそもなぜそこまで両陣営がきな臭くなってしまったのかという幕末の政争を巡る解釈にも多々争点が宿るため、フラットな目線から一概に「こういう戦争だ」と言い切ることが難しい側面を持っているのですが、その分”歴史とは勝者が紡いだドラマである”という含みが方々に感じられるのもまた、この時代の歴史が持つ特徴となっています。
参考:討幕・新政府成立への流れ
戊辰戦争の経過
戊辰戦争は、鳥羽(現在の京都市南区、伏見区)及び伏見(同伏見区)での戦いによって幕を開けました(1868年1月)。
戦争全体を俯瞰したとき、幕府軍が唯一勝てた可能性のある戦いがまさに緒戦の鳥羽・伏見の戦いだった(そして幕府軍がこの戦いに勝利していれば、その後の歴史は大きく変わっていただろう)ともいわれていますが、将である徳川慶喜の一方的恭順などもあって幕府軍が敗退すると、その後の戦いでは東へと軍を進める新政府軍が常に優勢となり、戊辰戦争開戦から約3か月の後、1868年4月には江戸城が無血開城されました。
しかしこの時点では、新政府の方針に異を唱える北陸・東北の諸藩が(新政府にとっての)抵抗勢力として残っていたため、なお戦争は継続します。
その後彰義隊(上野にて恭順中の徳川慶喜警護のため、旧幕臣で構成された部隊)が壊滅した上野戦争(1868年5月)、中立を保っていた河井継之助旗下の越後長岡藩が奥羽越列藩同盟に加盟し、旧幕府軍側に立って参戦・敗北した北越戦争(同年7月)を経た後、戊辰戦争の天王山であった会津戦争での会津藩の敗退(同年9月)によって、開戦後約半年強で本州全土が新政府軍に制圧されました。
新政府軍の戦果がこれだけ圧倒的だった理由は、一重に新式の兵器を潤沢に所持し、かつ使用出来たことによっていますが、このことによって双方の戦力差は圧倒的なものとなり、時間の経過によっていよいよ旧幕府軍の勝ち目はなくなっていきます。
箱館戦争終結と、その後の明治新政府
1868年12月、旧幕府軍の残存勢力は、榎本武揚(箱館政権総裁、軍艦操練所教授、幕府海軍の指揮官)を総裁とする箱館政権(蝦夷共和国)を樹立し新政府軍に対峙しますが、翌1869年4月より新政府軍の総攻撃が始まると、5月には箱館政権が陥落、箱館戦争・戊辰戦争は終結しました。
土方歳三は箱館戦争において戦死し、旧幕府軍も壊滅します。
ただし新政府の政権運営上の波乱は戊辰戦争後も断続的に発生し、局所的に日本社会の混迷も本格化することになりました。
例えば相次ぐ士族の反乱の後、戊辰戦争終結から約10年後には”官軍の将”だったはずの西郷隆盛を相手取った西南戦争(1877年=明治10年)を戦うこととなり、西南戦争終結後はそのまま自由民権運動激化への対処を迫られることとなったというように、”藩閥政府”は引き続きの対処を迫られることになります。