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【街歩きと横浜史】ホテルニューグランド(山下公園前、中華街傍)
グランドホテルとニューグランド
ホテルニューグランド(公式サイト)は、山下公園前に位置する、みなと横浜の歴史と共にある老舗ホテルです。
開港期の横浜を代表するホテルだった横浜グランドホテルが関東大震災で壊滅したあと、その復興事業の一環で再建されたのが現在の”ニューグランド”でした(参考:関東大震災後の山下町)。
ということで、グランドホテルにも、ニューグランドにも、それぞれ横浜の歴史と色濃くリンクしている側面があります。
横浜ゆかりの”大衆小説の大家”、大佛次郎さん(参考:港の見える丘公園・文学館エリア “大佛次郎記念館“)がニューグランドの318号室を定宿として作家活動に勤しんでいたこともニューグランドの歴史の一コマですが、開港都市・横浜華やかなりし時代(参考:開港後の山下町(外国人居留地)の発展)、横浜というよりは日本を代表するホテルだと称えられたのがグランドホテルだったことから、震災後の復興で後継ホテルだと目されたニューグランドにも、各国の賓客等を招き入れる華やかな一面があったようです。
海外からの宿泊客の中には、MLB(米メジャーリーグ)の”元祖二刀流”であるベーブルース(参考:日本大通り地区の歴史 “クリケット競技場から野球場へ“)や、イギリスの喜劇王として世界的な知名度を有すチャールズ・チャップリンなどがいましたが、復興した横浜にあってのニューグランドが”震災前のグランドホテルの役割を果たすに至った”ことは、その後の歴史にも結果として影を落とします。
第二次世界大戦後、戦後の日本を占領統治すべく連合国軍が日本に上陸した際、GHQ(General Headquarters=連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers=SCAP)であるダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)が、1945年8月30日に進駐した横浜での拠点(臨時の司令部)にニューグランドを指定したのも、ひとつには”ニューグランド”の知名度が為した業でした。
マッカーサー及びGHQは、初見でたまたまそこにあったニューグランドを拠点に決めたわけではなく、第二次世界大戦の末期には、日本に進駐した場合の仮の拠点をニューグランドとすると決めていたようで、戦災を逃れたのも偶然ではなく、かねてよりニューグランドを知っていた(戦前に新婚旅行で日本を訪れ、ニューグランドに宿泊した)マッカーサーが東京進出前の拠点とするために、あえて空襲を回避したのだ、という話しも残っているんですね(参考:Web版有隣 第478号 “[座談会]ホテルニューグランドの80年“)。
尤も、マッカーサーのニューグランド滞在は三日間であり、ほどなく横浜でのGHQの拠点も現在の横浜税関ビルに移され、やがてGHQが東京に侵出(1945年9月10日、皇居付近の第一生命ビルを接収し、本部とすると、以降GHQによる対日占領政策が本格化します)すると、以降の横浜税関には米陸軍の第八軍司令部が置かれ、マッカーサー退去後のニューグランドは、接収が解除される1952年まで、GHQの将校宿舎として使われたようです(参考:CityOfYokohama “かながわの米軍施設-横浜地区編-“)。
ちなみに米陸軍の第八軍は、1944年創設の、環太平洋地域を主戦場とする部隊で、朝鮮戦争の勃発以降は韓国に駐留しています(参考:横浜市公式サイト “米第8軍の軍総司令部が置かれた横浜税関“)。
現在、マッカーサーが上陸直後の拠点としたニューグランドには”マッカーサーズスイート“(ニューグランド公式サイト “写真集“)が、占領統治が本格化した後の拠点である旧第一生命館には”マッカーサー記念室“(第一生命公式サイト “マッカーサー記念室“)が、それぞれ保存されています。
ニューグランドや旧第一生命館が米軍(連合国軍)に接収された時期の日本は、敗戦国として主権がはく奪され、占領統治を余儀なくされていました。そんな時代の記録である以上、少なくとも日本人にとっては複雑な思いを抱かせる時期の歴史であり、中でも諸々のGHQの足跡はその核心の一つにあたるものではあるのですが、日本の近世史・近代史を振り返る時には、東京あっての横浜、横浜あっての東京なんだなと思わされるような一コマでもありますね。
参考:ホテルニューグランド公式サイト “ヒストリー“、第一生命公式サイト “マッカーサー記念室の歴史“他