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【開港都市・長崎の風景】オランダ坂付近の西洋館(東山手町)
オランダ坂と西洋館
長崎・東山手の旧外国人居留地跡に今も残る石畳の坂道・オランダ坂(長崎市公式観光サイト “オランダ坂“)沿いとその周辺には、かつて居留地時代に使われていた西洋館が観光資源として残されています。
東山手洋風住宅群
路面電車の石橋駅(石橋電停)を背にしてオランダ坂を上っていった時、坂道の左側に二本の細い道が出てくるのですが、まずはこの細い二本の道沿いに7棟の西洋館が密集して残されています。
丘の上側に3棟、下側に4棟ですね。
現在は7棟のうち6棟が長崎市の管理下で解放されていますが(残りの1棟も喫茶店として開放されています)、意匠(=デザイン)や仕上げ、材料がほぼ同一であることから(ぱっと見でわかりますが、7棟ともそっくりな建物です)、社宅もしくは賃貸住宅として計画的に建築されたものだと推定されています(参考:長崎市公式観光サイト “東山手洋風住宅群(7棟)“)。
古写真資料館/埋蔵資料館
西洋館は丘の下側に4棟、丘の上側に3棟が寄り添うように建てられていますが、下側の4棟の西洋館のうち、3棟が”古写真資料館”(長崎市公式サイト “古写真資料館“)として開放され、1棟が”埋蔵資料館”(長崎市公式サイト “埋蔵資料館“)として開放されています。
古写真資料館、埋蔵資料館共、入館料がかかります(一般100円、小・中学生50円で、二つの施設を見学できます)。
「この道本当に通れるのかな?」と、若干不安になってくるような細い道なのですが、この細い道が西洋館への通路となっていて、
やがて西洋館への入口が見えてきます。
古写真資料館の入り口と(残念ながら当日は休館日でした)、
2棟空けて、一番端には埋蔵資料館の入口が用意されています。
4棟の西洋館前に伸びた細い道は埋蔵資料館横で行き止まりになっているように見えますが、埋蔵資料館の敷地内は、上側に作られた3棟の西洋館前に通された通路との間が階段坂で繋がれているので、自由に行き来できるようになっています。
作りのよく似た西洋館が左右と上に密集していることから、今でも現役の”異国感”が強く残された一帯となっていますが、
4棟の西洋館の前には、オランダ坂との間がつながれた道が通されています。
東山手「地球館」cafe slow/長崎市東山手地区町並み保存センター
オランダ坂と西洋館前をつなぐ二本の細い道のうち、上側に通された上3棟の西洋館への道は、下側に通された道に比べるとややゆとりがある道となっています。
手前には”東山手「地球館」café slow”(長崎市公式観光サイト “東山手「地球館」café slow“)が、
奥には長崎市東山手地区町並み保存センター(長崎市公式サイト)が、それぞれ用意されています。
さらに奥へと進んでいくと、下側に位置する4棟の西洋館への通路となる階段坂が用意されていて、
階段坂の向こうでは、西洋館の瓦屋根や孔子廟の赤い壁などが視界に入って来ます(階段坂の先に伸びた細い道は、孔子廟の前に通された、孔子廟通りへつながっています)。
西洋館の屋根の上に突き出た煙突の右側には、微かに大浦天主堂の屋根が見えていますが、
2棟の西洋館の間にはオランダ坂が見えていて、
オランダ坂との接点となる入り口とも、わかりやすく繋がっています。
訪問時残念だったのは、古写真資料館や東山手地区町並み保存センターが休館日に当たったこと、”東山手「地球館」”は昼営業と夜間営業の間の時間にあたってしまったようだということで、ほぼ周りを歩いただけで終わってしまった点ですね。
オランダ坂からの西洋館と、長崎の風景
オランダ坂の”東山手洋風住宅群”付近では、7棟の西洋館をほぼ真横に見下ろしながら坂道を上っていくことになるのですが、
西洋館と西洋館の間からは、孔子廟が見えたり、
西洋館の屋根の上には小さく大浦天主堂の屋根が見えたり、上ってきた坂道を振り返ると、南山手の丘の上に向かって伸びるグラバースカイロード(長崎市公式観光サイト “グラバースカイロード“)が視界に入って来たりと、長崎ならではといった風景を楽しむことが出来ます。
活水女子大・東山手キャンパス付近
オランダ坂と、オランダ坂から分岐した坂道の間に位置する一帯にも西洋館が数棟残されています。
現在も活水女子大学の私的な施設として使われている西洋館が残されている他、2棟(東山手十二番館、東山手甲十三番館)の西洋館については、長崎市の管理下で一般公開されています。
東山手十二番館
東山手十二番館(長崎市公式観光サイト/長崎市公式サイト “東山手十二番館“/”東山手十二番館“)は、1868年に建設された、東山手地区最古の西洋館です。
ロシアの領事館やアメリカ人宣教師の住宅として使われた建物は、昭和16年に活水学院に譲渡され、さらに昭和51年には長崎市が活水学院から寄贈を受けるという形で長崎市の所有となると、平成7年以降、”長崎市旧居留地私学歴史資料館”として利用される運びとなりました。
1988年=昭和63年には、国の重要文化財に指定されています(文化遺産オンライン “東山手十二番館 主屋“)。
東山手十二番館の奥には、活水学院が所有する2棟の西洋館、同窓会の施設と活水学院ラッセル記念館が置かれていて、
敷地のすぐ前にあたる位置からは、
オランダ坂へと下る階段坂が用意されています。
この坂道をまっすぐ進むと海星学園前の三叉路に向かいますが(参考:英国聖公会会堂跡)、この階段坂の傍(写真の右側)には、孔子廟前に通された孔子廟通りへと向かう階段坂も用意されています。
階段坂のはじまりの位置には東山手全域の説明が書かれた板が設置されていて、
東山手十二番館や活水学院の施設への入り口として、赤レンガ造りの門が用意されています。
“長崎市旧居留地私学歴史資料館”として
現在、東山手十二番館の館内では、旧居留地時代以降の外国人が主体となった教育の歴史が展示・公開されています。
居留地にルーツを持つ私学の紹介や、
宣教師たちの”ミッション”によって作られた学校の沿革、
さらにはそれらの学校が今現在に至る様子等々。旧居留地時代の歴史や”助っ人外国人”達の紹介と共に展示されているのですが、
教育史上この時代が持つ特徴としては、ミッション系(キリスト教の宣教師たちが自らの”ミッション=使命”と位置付けてはじめた)教育施設が増えたこと、その流れの中で近代女子教育(女子高等教育)が普及を始めたことなどが挙げられます。
もちろん、後に共学となる学校や、創立以来一貫して男子校としての歴史を歩んできたというようなミッション系の学校も存在するのですが、”新たに始まることとなった”どこか華のある教育の形が注目を集めることとなった、という感じでしょうか。
“男子教育”については従前通り、時勢との関連で言うのであれば、より時代にキャッチアップした(実戦的かつハイレベルな)教育施設が求められるようになっていったことと同時に(参考:旧帝国大学と新制大学)、女子についても、より教育の場が開かれていくことになったんですね。
“ミッション系の学校を経由した、近代女子教育の普及”は、この時期海外から日本国内に多くの女性宣教師が渡航したことに直接的な理由を持っていますが、元々は個人レベルで始めた私塾がやがて一般的な学校規模となり、現在では伝統校となっている、というのがしばしば目にする沿革です。
この点は同じ開港都市の横浜についても然りということで(参考:横浜山手と女子校)、開港地の歴史を紐解いていく際にはしばしば絡んでくる要素の一つとなっていますが、
山手十二番館の館内では、旧外国人居留地時代以来東山手の地に縁があるという、活水学院の校史や関連資料などを展示した一画も用意されています。
東山手甲十三番館
東山手甲十三番館(長崎市公式観光サイト “東山手甲十三番館“)は、明治中期に建てられた、かつてフランスの代理領事の邸宅として使われていた西洋館です。
現在はカフェとして使われている他、観光情報やお土産等も扱っているようですが、残念ながら訪問日が休館日にかぶってしまったということで、今回の長崎旅では門前までの観光となりました。
オランダ坂の坂名標が置かれた一帯から始まる石畳の坂道を上った先に、入口が用意されています(参考:オランダ坂・大浦海岸通側入り口付近)。