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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その7】御三階跡と茶室麟閣(旧鶴ヶ城本丸内の史跡)
旧本丸内の史跡
御三階跡
鶴ヶ城(公式サイト)の旧本丸内では、藩主の休憩室傍に三階建ての高層建築があったのですが、”高層”はこれが本丸内唯一の建物でした。
戊辰戦争後、会津若松市内の阿弥陀寺(JR只見線・七日町駅傍。参考:会津若松七日町通り “阿弥陀寺“)へ移築されましたが、将来的には元あった本丸内への移築も検討されているようです。
現在、御三階があった地(天守閣と二の丸の中間付近で、後述する茶室麟閣の傍です)には、往時をしのばせる石垣が遺されています。
茶室麟閣
本丸内の茶室
旧本丸内には、往時をしのぶ目玉施設として、茶室麟閣(公式サイト)が遺されています。
千利休の養子・千小庵が、時の会津藩主・蒲生氏郷のために作ったと言われている茶室で、造築以降の麟閣は、鶴ヶ城内では代々大切に使用されてきたようです。
敷地内には、茶室に隣接した庭園内に造られた、亭主からの迎えを待つ場である”腰掛待合“や、
待合から茶室に向かう時にくぐる”中門“
さらには茶会に招かれたお客さんが身支度を整えるための”寄付“なども残されています。
これらの施設の奥に控えているのが、茶室・麟閣で、
現在は、内部に入ることは出来ませんが、周囲をぐるっと一回りすることが出来ます。
「身分関係その他も含め、俗世間との間を隔絶する役割を果たしている」という、茶室の入口”にじり口”の向こうには、
一期一会のお茶をたてるための空間が用意されていて、
茶室内の様子を両側から伺うことが出来ます。
茶室麟閣の歴史
「利休の養子・小庵が、会津藩主蒲生氏郷のために」という点、元々織田信長に茶人として仕えていた千利休は、信長の死後は豊臣秀吉を主君と仰ぐことになるのですが、千利休はやがてその行動の某かが秀吉の逆鱗に触れたことによって、死罪を言い渡されます。
なぜ死罪を言い渡されたのかという点に諸説ある上(私的な行動が忌み嫌われた、影響力を警戒された、秀吉の言いつけに従わなかった等々)、本当に死罪となったのかについても諸説があるという(本当に利休本人が割腹したという説の他、割腹したのは利休の身代わりであり、本人は逃亡したとする説もあるようです)、歴史上の千利休自体の最期には(”実は生きていた”説がまことしやかにささやかれる明智光秀同様)ミステリアスな要素も含まれているのですが、事実としては利休が完成させた茶道の千家(表千家)についてもまた”利休の死”と共に追放されていたために、死罪を言い渡された利休共々、茶道の千家自体も断絶の危機にありました。
表千家は後の”三千家“(表千家・裏千家・武者小路千家)のルーツとなる流派ですが、この危機を救ったのが「利休と共にわび茶の流派までなくしてしまうのはあまりに惜しい」として小庵をかくまった会津藩主・蒲生氏郷であり、茶室にしてもその縁で作られたようです。
ほとぼりが冷めるまでの間会津藩にて蒲生氏郷に匿われつつ、やがて蒲生氏郷や徳川家康の(秀吉への)働きかけによって京に復権した小庵は千家を再興し、後の三千家への足掛かりを作りました。
以降、千利休縁の茶室麟閣は、江戸時代全期間を通じて会津藩にて大切に維持されて行きます。
後日談として、戊辰戦争後の鶴ヶ城取り壊し時には茶室は保護のため移築され、長らく本丸の外に出ることとなったのですが、1990年(平成2年)、会津若松市の市制90年を記念して元の鶴ヶ城本丸内へと”里帰り”することになり、現在地で公開される運びとなりました。