【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港地での共存-

街歩きと横浜史
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開港地での共存 -幕末の世相と開港場の治安維持-

開国・開港によって、東京湾沿いの長閑な寒村だった横浜村が一大転機を迎えた当時。

時の日本社会では未だ開国・開港に強硬に反対する勢力(=攘夷派)が勢いを持っていたため、開港地・横浜においては外国人居留民の身辺保護、および外国人居留地の治安維持が喫緊の問題となります。

参考

いわゆる関内エリア

そこで開港の翌年にあたる万延まんえん元(1860)年、新たに掘割(堀川。上地図赤線部分)が掘削され、その上に橋が架けられた上で、橋のたもとには関門が設けられるという形で開港地の治安が守られることになりました。

その結果形成されることになったのが上地図上部の楕円+斜線の部分、いわゆる”関内かんないエリア“です。

JRや市営地下鉄の駅名にもなっている”関内”の呼び名は、関所の”なか“(海側=北側)に由来する命名で、正式な地名ではなく通称名(昔から慣習的にそう呼ばれているという地名)に該当します。

例えばJR関内駅や旧市役所跡地の住所は中区港町、横浜スタジアムを擁する横浜公園の住所は中区横浜公園、市営地下鉄関内駅の住所は中区尾上おのえといった感じで、いわゆる”関内エリア”にあたる各所は、それぞれ”関内”とは異なる町名(住所)を有しているんですね。

現在の地形や交通インフラとの対比だと、概ね、

  • 堀川:中村川下流の、西の橋(元町交差点付近)・山下橋(旧海岸線付近)間
  • 関内(通称名):JR根岸線の線路より海側(=北側)、かつ堀川・大岡川間の一帯

に該当します。

一般に知られた線引きとしては、JR関内駅の南側に位置したとされる”吉田橋関門”を基準として、これより北が関内、南が関外という区分ですね(なので、堀川や中村川沿いに設置された他関門についても然り、という推測が働きます)。

かつての”関内”は、今時の感覚で関内というよりは旧横浜村を中心とした開港場一帯とした方がしっくりくる感じではありますが、以上のことに対して一言付記することがあるとすれば、上記はあくまで歴史的な文脈から捉えた場合の”関内”解釈です、というあたりでしょうか。

要は「今時の感覚で捉えた場合、かつての関内解釈は範囲が広すぎる」ってことですね。

今現在の関内は? と言った時、みなと大通り-本町通り-馬車道-JR根岸線で囲まれた”関内駅前北東側の一帯”=関内(概ね上地図の赤斜線部)、みたいなイメージが恐らくは一般的です。

関内駅の近くだから”関内”と呼ばれている(それでなんとなく通用するし、他にこれといってわかりやすい呼び方がないエリアが”関内”となっている)、ほぼJR関内駅の駅前周辺エリアの海側のみ、もっというとただ関内といったら実質ほぼ”駅”だと捉えられている傾向にしても、なくはないようにも思えます。

東は日本大通りだし、西は馬車道だし、北には本町通りや海岸通りがあるし、という感じですか。

ほぼ同じ理屈で(?)、関内駅(や、JR根岸線)の南側に位置する大通り公園エリアや伊勢佐木モールを関内と言うか言わないかと問われれば、場所を聞かれて「関内(駅)の近く」と答えることはあっても、大通り公園は大通り公園だし、伊勢佐木は伊勢佐木ですよね、と感じる部分にしても無きにしも非ずで、「言う」と捉えると微妙にしっくりこないものを感じるような気がしなくもありません。

何か禅問答のようだというかトートロジーを感じさせるというかそんな雰囲気も漂ってきますが 笑、そもそもこちらは歴史的にも”関内”ではなかったエリアですからね。

かといって、歴史的に云々という話をするのであれば、「中華街や山下公園も関内です」と捉えても間違いではないし、むしろそれはそれで正解にあたるのかもしれませんが、現地で地元民と会話する際にその感覚を持ち続けると、会話に齟齬が生じる可能性がある(というよりは、恐らく会話が行き違うことになる)ということですね。

「中華街や山下公園も関内だよね?」

「いや、あの辺は石川町じゃない? それか、元町中華街?」

「え?」(あれは関所の外側なの?)

「え?」(最寄り駅のことを言っているんだよね?)

みたいな感じですか 笑。

結論としては、ここの捉え方は本当に、人に依ってくる部分が多々あると思います(上記は地元民の一般論に近いのではないかと個人的には思っていますが、それでもあくまで私見です)。

通称名としては強烈なインパクトを持っている”関内”が、なぜ、結果的にかくも中途半端に終わっているのかといえば、やっぱり“まずはじめに関所ありき”の呼び名だったからなのでしょう。

開港場周りに関所が作られ、”関内”の通称名が使われるようになったのが1860年代(1864年、吉田橋関門の移設に伴うようです)、関所の全廃が1871年。

都合7年間の呼称だった、にもかかわらず未だに通称名が残っていると考えたら、それはそれですごいことですよね。

参考

吉田新田と堀川・大岡川、”関内”エリア

次に、関内の近隣エリアも含めた立地について。

上地図において、西の橋から蒔田まいた公園(地図左端)まで伸びた地図下側の青い線は、掘割と大岡川をつなぐ形で延びている中村川蒔田公園付近から地図右側上部に向かって伸びている、地図上側の青い線大岡川です。

堀川、中村川、大岡川という三本の”川”と東京湾によって陸から隔離された形となった”旧・吉田新田エリア”へは、万延元(1860)年、掘割の掘削(=堀川造成)と時を同じくして初代の谷戸橋と前田橋が堀川上に架橋され、二橋が架けられた翌年には初代の西の橋が(同じく堀川上に)架橋されます。

ちなみに吉田新田とは、元々は入江となっていた地(=現在の大岡川・中村川間の、釣り鐘型となった一帯)が江戸時代に新田として開拓された後、開拓を実行した石材商・吉田勘兵衛の名字を譲り受ける形で”吉田新田”と命名された一帯のことです。

堀の上に架けられた橋で結ばれた関内・関外エリアは、幕末期には吉田橋同様、谷戸橋、前田橋、西の橋の袂にそれぞれ用意された関門にて警備された後、明治4(1871)年に関所が全廃されたことによって新時代を迎えました。

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彼我公園(横浜公園)、日本大通り、山手公園の誕生

港崎遊郭の設置

横浜開港当初、開港場の最寄りエリア(現在の横浜公園界隈)には、港町を活性化させるためにとして、江戸の吉原を模した港崎みよざき遊郭が設置されました。

遊郭とは要するに、その昔の成人男性にとっての、夜の社交場のことですね。

日本側、外国人居留民側、双方の合意に基づく設置であり、当時なりに重要な役割を担う施設だったと考えられていますが、かつての遊郭では双方に文化的な素養や社会的な格式を意識した振る舞いが求められたというあたりは、現在のその系統の業界一般との間にある大きな相違点にあたるところでしょうか。

ほか、”当時一流”という点では、例えば花魁や遊女に現代では考えられない位重い事情があった(貧しい家から身売りされてくるケースが大半だったようで、死後に親族が遺体を引き取らないようなケースも常態化していたようです)、あるいは劣悪な労働環境があった(居住移転の自由が制限された上に待遇も悪く、時に性病の温床となっていたことはしばしば指摘されます)といわれている反面、利用客である男性側には様々な粋や楽しみもあり、究極的にはそこで見染めた遊女や花魁を遊郭から引き取ることもできた身請けと呼ばれる制度を利用したもので、客側が遊女、あるいは花魁の”借金”を払ってしまえば問題ないという理屈です)ようです。

”身請け”にあたってはべらぼうな額の補償金を伴うこととなったのであろうあたり想像に難くないところですが、諸々の事情を含めて捉えるなら、当時の世の中では、当時の世の中の理屈がどこかに救いを設けようとする形で回っていたということなのでしょう。

ともあれ、結論として、当時は当時なりに需要のある合法施設であったことから、それが開港場においても双方に求められる形で設置される運びとなりました。

ということで、現在横浜公園内にある彼我庭園には、港崎遊郭最大の妓楼ぎろう(遊女のお店)だったという”岩亀楼”の石灯籠が置かれています。

参考

幕末の大火と、日本大通り・彼我公園の設置

開港7年後の慶応2(1866)年、俗に”豚屋火事”(火元となった豚肉料理屋・豚屋鉄五郎方の名からの命名です)と呼ばれる大火事が発生しました。

この大火によって400人以上の遊女が焼死することになってしまったという、前記した港崎遊郭の焼失をはじめ、当時の関内地区の2/3以上が被災します。開港地がほぼ丸ごと灰燼に帰してしまったという大火災からの復興が急務となる中、明治3(1870)年には、開港場の中心エリアに日本大通りが作られました。

外国人居留地と日本人街の間に、延焼防止エリアとしての機能を持たされる形で設置された”大通り“は、中央車道12メートル、その左に3メートルの歩道、右に9メートルの植樹帯を持つという、当時の日本では最大級の幅員を持った、”日本の近代街路の発祥”となります。

続いて明治9(1876)年旧・港崎遊郭跡地に日本人・外国人共用の”彼我公園”が設置されます。

周知のように、現在の横浜公園のルーツにあたる公園ですね。

彼我公園の言う彼我とは”彼”=外国人と”我”=日本人の意で、そのネーミングには「外国人と日本人共用の公園」といった意味が含まれていますが、設立趣旨的に、山手の居留地に居留民専用として作られた山手公園(後述)とは対照的な開放感を特徴としています。

参考

彼我公園クリケット場

公園内には、居留民同士がスポーツ(クリケット、ラグビー、サッカー等々)を楽しむ場として、クリケット場が作られました。

英国発祥のクリケットは日本社会にはなじみの薄いスポーツですが、競技人口は世界二位、オーストラリア、インド、南アフリカ、西インド諸島などの英連邦諸国で主に親しまれているようです。

良く知られているのは野球(19世紀、アメリカ発祥です)との類似性で、しばしば「野球の原型がクリケットだ」などとも言われますが、クリケットの起源は13世紀にあるとのことで、同じイングランド発祥のサッカーやラグビー(共に18世紀に起源があります)に比べても圧倒的に長い歴史を誇ります。

クリケット場として造られたグラウンドでは様々なスポーツが楽しまれますが、特に外国人居留民のスポーツクラブとして発足したYC&ACとの間では、日本人学生(旧制一高、慶應義塾等)との間でいくつかの記念すべき交流試合(=日本初の国際試合)が行われました(後述)。

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山手公園の誕生と、日本でのテニスの発祥

開港から11年後の明治3(1870)年

妙香寺の敷地の一部を借地する形で、外国人側に”パブリックガーデン”日本人側に”山手公園”と呼ばれた外国人専用公園が誕生します。

外国人居留民の出費によって作られた、日本初の洋式公園(=洋式の公共庭園)ですね。

山手公園開園8年後の明治11(1878)年には、居留外国人有志から私設団体”レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ”(現・横浜インターナショナルテニスコミュニティ)に借地権者が移ったことを契機として、公園にてテニスクラブが創設されると同時にテニスのクラブハウス、さらには日本初のテニスコートが作られ、山手公園は日本で初めてテニスがプレイされた公園となりました。

関東大震災後の昭和4(1929)年より一般開放され、日本人も使用できる公園となりますが、近年では平成16(2004)年3月に国の名勝に指定され、平成21(2009)年2月には横浜公園、根岸森林公園と共に”旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る”近代化産業遺産の認定を受けました。

現在、公園内には国内テニス発祥の地であることを記念した”横浜山手テニス発祥記念館“が設置されています。

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国内スポーツの黎明と、彼我公園

幕末の”豚屋火事”後、かつての港崎遊郭の跡地に作られたという現在の横浜公園の前身・彼我公園の利用者は、名前に込められた期待とは裏腹に、当初外国人居留民に偏重していたようです。

しかし、明治30年を前後して相次いで開催されたYC&ACを対戦相手とする国際試合に象徴されるように、ぼちぼち日本人側の利用も増加し、港町における国際交流の舞台となります。

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彼我公園での、日本初の国際試合 -旧制一高野球部-

明治29(1896)年 旧制一高(現・東大教養学部)野球部 vs YC&AC

”帝国大学”となる前の東京大学では、明治5(1872)年に野球の同好会的な活動が始まりますが、この活動がベースとなる形で、明治23(1890)年現在の東京大学運動会公式野球部の前身である旧制第一高等学校(一高)野球部が発足します。

日本野球の黎明期の出来事ですが、以降、当時の国内では一高野球部が”球界の盟主”として無敵の強さを誇ったようです。

YC&ACを彼我公園での国際試合で迎え撃った明治29年まで、国内38連勝と”敵無し”状態、対するYC&ACはといえば、一高野球部側には本場の強豪チームとして伝わっていたようで、”初の国際試合”についても、度重なる一高側からのオファーを漸くYC&AC側が受けて立つことになった、という顛末がありました。

“YC&AC”が一高野球部側の熱意に折れる形で成立したという国際試合では、国内で無敵を誇った一高野球部が29-4というスコアでYC&ACに圧勝しています。

”日本代表チーム”としての一高野球部の試合開催と勝利は、時の一高生を熱狂させると同時に、全国規模のニュースともなったようで、この一事によって野球は全国的な人気を博することとなりました。

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彼我公園での、日本初の国際試合 -慶應義塾ラグビークラブ-

明治34(1901)年 慶應義塾ラグビークラブ vs YC&AC

現在の慶應義塾大学体育会蹴球部の前身にあたる慶應義塾のラグビークラブは、日本で初めてラグビーの国際試合を経験したラグビーチームです。

一高野球部同様、YC&ACを相手とした国際試合を戦うこととなったのですが、日本ラグビーにとっての歴史的カードは、野球同様、彼我公園(=明治期の横浜公園)にて開催されました。

”日本初兼アジア初”のラグビークラブである”横浜フットボールクラブ”が、現在の横浜中華街内で結成されたのは慶応2(1866)年1月、件の試合はそれから約30年後のことですね。

残念ながら慶應のラグビークラブは初対戦では5-35と完敗してしまうのですが、それから7年後の対戦では12-0で見事雪辱を果たし、2戦目にして日本人チームの初勝利を勝ち取りました。

現在、横浜中華街内には”日本のフットボール発祥地”碑が置かれていますが、碑では前記”横浜フットボールクラブ”と共に、慶應義塾vsYC&ACの対戦についても触れられています。

余談として、慶應ではラグビー部は蹴球部サッカー部はソッカー部が正式名称です。

蹴球部が既に国内スポーツの黎明期から存在していたことや、”サッカー”の元々の発音が”ソッカー”に近かったことなどが、”ラグビー部が蹴球部”、および”サッカー部がソッカー部”であることの理由となっている形です。

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横浜中華街の黎明

現在、みなとみらい線沿線の一大観光スポットとなっている横浜中華街も、開港とほぼ同時に黎明期を迎えます。

横浜開港時、”安政の五か国条約“締結相手国の居留民の中国人通訳(厳密には買弁ばいべん”と呼ばれた仲介商人)たちや、欧米人の下で下働きをするため来日していた中国人たちは、列強の居留民同様に、日本国内における生活拠点=居留地を必要とします。

列強にとっての本命条約であった”修好通商条約”が締結されたことによって、中国人居留民たちもまた、日本国内に外交・交易を推進するための生活拠点を必要としたためですね。

現在の山下町山手町にイギリス・フランスをはじめとする海外居留民の交易拠点や居留地が作られた頃、当時の中国人たちは、旧・吉田新田内部(現在の山下町エリア)に作られた開墾地である横浜新田を利用する形で、居留地を形成しはじめました。

この中国人居留地こそが、現在日本三大中華街の一つにして日本最大の中華街である、横浜中華街の原点となった街です。

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アメリカ山公園、イタリア山庭園、横浜市イギリス館他

山手居留地成立以降の列強との縁が由来となった施設には、かつてアメリカ公使館の書記官の居住地となった時期を持つことからその名がついたアメリカ山公園や、明治13(1880)年から明治19(1886)年まで、イタリア領事館が置かれていたことに命名の由来があるというイタリア山庭園、さらにはかつてイギリス総領事の公邸として使われていたという由緒のある横浜市イギリス館や、その縁から命名されたというイングリッシュローズの庭などがあります。

余談として、かつて横浜山手が外国人居留地だった時代にこの地に住んでいたアメリカ公使館の書記官とは、日本初の鉄道敷設にあたり、イギリスに先んじて日本に鉄道敷設計画を提案したアントン・L・C・ポートマンです(ポートマンのプランにはいくつかの問題点が指摘されたため、残念ながら廃案となりました)。

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