横浜街歩き

【横浜街歩き/日本大通りエリア】横浜公園

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【横浜街歩き/日本大通りエリア】横浜公園

港崎遊郭から彼我公園へ

開港直後、現在横浜公園がある場所には、江戸の吉原を模した港崎(みよざき)遊郭という遊郭が作られていました。

遊郭とは要するに花魁に象徴される成人男性の夜の社交場のことですが、

「(列強)開国するなら江戸を開港してくれ→(幕府)せめて神奈川開港ということでひとつよろしくお願いします→(列強)うーん…まぁ、暫定的には?→(幕府)とはいったけどやっぱり神奈川じゃ(江戸に近いし)手狭だよね、と思ったらこんなところに都合のいい場所が!→(列強)横浜? 神奈川じゃなかったのか?→(幕府)横浜も神奈川でござる!→(列強)ふざけるな!→(幕府)もう横浜に港作っちゃいましたテヘッ!」

といったように、元々が物議を醸した横浜開港だったこともあり、港町としての発展促進を狙って(山下町の居留地傍に)作られました。

遊郭では、花魁や遊女(遊女の最上位が花魁、みたいな感じだと思います)に現代では考えられない位重い事情があったり(貧しい家から身売りされてくるケースが大半だったようです)、あるいは劣悪な労働環境があったり(居住移転の自由が制限され、一か所にとどめ置かれる、時に性病の温床となる)といった反面、利用客である男性側には、様々な粋や楽しみもあったといわれます。

究極的には、そこで見染めた花魁を遊郭から引き取る(身請けと呼ばれる制度を利用したもので、客側が遊女、あるいは花魁の「借金」を払ってしまえば問題ないという理屈)こともできたようです。

遊女を指名する側が遊女の「借金」を完済し、身元を引き取るわけですが、べらぼうな額の補償金を伴うこととなったであろうあたり、想像に難くないところですね。

実際、「身請け」の大半は大金持ち商人の愛人探し的な要素が濃かったようですが、中には政府のお偉いさんの男気からの決断なんてこともあったようで、例えば日本海軍の父と呼ばれた旧薩摩藩士・山本権兵衛海軍大臣の奥さんは、遊郭で山本権兵衛と知り合い、身請けによって娶られています。

当時の世の中は当時の世の中の理屈が、どこかに救いを設けようとする形で回していたんだろう、なんて部分も微妙に垣間見えてくるようです。

話しを戻すと、当時はそもそも宿場町の飯盛女さんからして似たようなことをやって商売していたのだという時代でもあったわけですが、だからこそ横浜にも早々に遊郭を準備してしまおうといった話しだったのでしょう。

近場に遊郭があれば外国人居留民もいついてくれるだろう、ということが、日本側の狙いとしたところでした(実際に一部居留民からもそのような要望があったようです)

施設が施設なだけに、港崎遊郭在りし日の一帯には独特の華もあったようですが、残念ながら港崎遊郭は幕末(慶応二年)の大火(豚屋火事)で消失してしまいます。

悲惨だったのは、この港崎遊郭の一帯だけで400人以上の遊女が焼死してしまったということでしょう。

「横浜・中区史」によると、港崎遊郭は吉原を模して造られたとのことですが、その本家の吉原では、遊女の逃亡防止のため、遊郭を取り囲むように「お歯黒どぶ」と呼ばれた堀が張り巡らされていました。

港崎遊郭周辺の古地図を見ると、やはり吉原同様に周辺が堀で囲まれているのがわかりますが、このことが悲惨な災害の原因になってしまった面はあったのかもしれません。

現在、横浜公園内にある彼我庭園に、港崎遊郭最大の妓楼(ぎろう、遊女のお店)だった、岩亀楼の石灯籠が置かれています。

ともかくも、大火災は事後の街づくりに色濃く反映されていきました。

 

彼我公園から横浜公園へ

この先の事情は日本大通りと同じで、大火からの復興事業の一環として、明治9年(1876年)、日本人・外国人共用の彼我公園が作られます。

彼我公園の言う彼我とは「彼」と「我」の意、要は外国人と日本人共用の公園といった意味があります。

開港場近く、かつ遊郭の跡地に作られたからなのか、山手の居留地に作られた山手公園が居留民専用だったこととは対照的な開放感が、造園時以来の特徴でした。

尤も「彼我公園」の利用者は、当初外国人居留民に偏重していたようですが、ぼちぼち日本人側の利用も増えていき、明治42年(1909年)には、「彼我公園」は「横浜公園」となりました。

クリケット場として造られたグラウンドでは様々なスポーツが楽しまれ、明治29年(1896年)には旧制一高(現・東大教養学部)野球部 vs YC&ACの野球の試合が行われる、明治34年(1901年)には、慶應義塾のラグビークラブ(現在の体育会蹴球部の前身。慶應では、ラグビー部は蹴球部、サッカー部はソッカー部が正式名称です)とYC&ACの国際試合(日本人初のラグビーの試合)が行われる(5-35で慶應側の敗北)など、海外から持ち込まれたスポーツの試合場となっていきます。

このうち、特に前者の一高野球部の勝利については、「東京大学広報誌『淡青』vol.19 一高野球部、大勝利の日」によると、「日本代表チーム」としての一高野球部の試合開催及び勝利が一高生を熱狂させると同時に、日本チーム=一高野球部チーム勝利の報は全国規模のニュースともなったようです。

現在の東京六大学野球リーグでも、昭和50年代の赤門旋風や、10年~15年周期で登場するいわゆる「プロ注」(≒ドラフト候補生)東大野球部員の活躍が学生野球ファンを熱狂させたりしますが、何かそういう盛り上がりを彷彿とさせますね。

やがて関東大震災からの復興事業の一環として、彼我公園に大掛かりなグラウンドが整備されます。この時には、公園内に体育館や音楽堂なども併設されますが、震災前の彼我公園というよりは、今現在の横浜公園+横浜スタジアムに近づいた瞬間でもありました。

ちなみに「当時の日本球界を代表した投手である沢村栄治が、一人メジャーリーグ選抜打線の前に立ちはだかった」(3番ルース、4番ゲーリックのメジャーリーグ選抜打線相手に完投し、5安打1失点の好投)時期が、大体震災から復興した後の時期に当たります。

1934年の日米野球では、その沢村投手や、後に戦後のプロ野球で名監督として名を馳せる三原脩(おさむ)さんや水原茂さんなどを擁した日本代表チームが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁したアメリカ代表チームと戦ったようです。

当時の横浜公園でも日本代表vsメジャーリーグ選抜の試合が一試合行われていますが、その結果はというと、4-21の大敗(完膚なきまでにボコボコにされています)、この年の日米野球にしても日本側の16連敗だったようです(参考:「日本プロ野球記録」内「1934年の日米野球)。

横浜公園内の野球場については、戦後の占領統治(接収)期にはゲーリック球場と名を変え、接収地が日本側に返還されたのちに横浜公園平和野球場と改名するなどの変遷を経て、1978年(昭和53年)、横浜公園平和野球場を全面改築する形で横浜スタジアムがオープンしました(参考:横浜スタジアム公式サイト内「横浜スタジアムの歴史」)。

 

現在の横浜公園

少し前までは「横浜公園部分」と「横浜スタジアム部分」とが判然としない部分もあったのですが(私見ですが、横浜公園の中に野球場がギチギチに詰め込まれている感じで、どこか落ち着きない部分もありました)、横浜スタジアムのウイング席が完成した現在、「横浜スタジアムに公園が付いている」という感じになっています。

根岸線側に面した部分、中華街側に面した部分にウイング席が作られたことによって、その僅かなスペースが完全に埋まってしまい、公園部分、球場部分がすっきり区分されました。

横浜公園の外部(特に山手・本牧側)から見た横浜スタジアムは、「かつて」との比較において、目が馴染むまでの間かなり圧迫感もあったのですが、馴染んでしまった結果改めてそういう利点が浮き彫りになった形ですね。

日本大通り側入り口付近から。

この付近一帯と、横浜市役所・JR関内駅方面に抜けていく一帯に作られたスペースが、現在唯一残された「横浜公園」的なスペースにあたります。

横浜公園や日本大通りを設計した英国人土木技師・ブラントンさんの胸像です。

このすぐ右隣には、横浜公園の歴史について書かれた案内板が5枚ほどあります。

正面には噴水が設置されています。写真奥に伸びている道が日本大通りです。

 

彼我庭園

日本大通り側入り口から入った場合、左手にある日本庭園が「彼我庭園」です。横浜スタジアムがこけら落としされた昭和53年(1978年)に造園され、都市緑化フェアが横浜開催された平成29年(2017年)に、開催を記念して「彼我庭園」と命名されました(余談ですが、横浜中心部では、この年より「ガーデンネックレス」が毎年春開催されることとなりました)。

入り口はこの門の他にも複数ありますが(横浜公園内にも三か所、公園外からの入り口が二か所)、庭園内は池を取り囲む散策コースになっています。

中華街、玄武門傍の入り口。

同じ通り沿いにあるもう一か所の入り口。

庭園内からも、横浜スタジアムのウイング席が臨めます。

PS.

2020年3月、他の地域より一足早く、横浜公園には春が訪れていました。

 

 

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