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【開港都市・長崎の風景】出島(路面電車出島駅傍、中島川沿い)
出島へ
開国後の出島と出島の復元
領事館の設置から外国人居留地へ
元々はポルトガル人のための交易場として作られ、ほどなくオランダ人商人たちの拠点となった出島ですが(参考:出島の築造)、1855年に締結された日蘭和親条約、および1858年に締結された”安政の五か国条約”発効によって日本人も自由に出入り出来るようになったことから、その歴史的役割を終えます(参考:条約締結と開港)。
日本の開国後はオランダ商館の廃止と同時にオランダ領事館が設置されますが、最初のオランダ領事には”引き続き”という形で、最後のオランダ商館長が着任しました(参考:領事館と総領事館)。
1866年以降の出島は外国人居留地へと編入され、居住者がオランダ人に限定されなくなります。
最終的には1899年(明治32年)、日本国内の外国人居留地が撤廃されたことで、”在りし日の出島”は国内から姿を消すこととなりました(参考:開港後の山下町(外国人居留地)の発展)。
参考:長崎市『よみがえる出島オランダ商館』(2020年3月)、『出島』(2021年3月)
長崎港の改良と、出島の復元
“天領”時代に続く明治期の長崎で立案されたのは、近代的な(幕末以降新たに開かれた、横浜や神戸のような)貿易都市へとシフトチェンジするための都市計画でした。
ということで、それぞれ1883年(明治16年)から8年間、1897年(明治30年)から7年間に渡ったという二次に渡る長崎港湾改良工事によって、”扇形をした出島”が消えると同時に”新生・長崎港”が誕生することとなりました。
かつての横浜港がそうであったように、明治期以前の海岸線を失いつつ近代的な貿易港としての成長を遂げることになったのが”開国”後の長崎港ですが、その後時は巡って第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)、出島のかつての姿を復元させるべく、出島復元整備事業がスタートします。
1978年(昭和53年)には資料調査や発掘調査などに基づいて、まずは19世紀初頭の出島の姿を復元させることが決められました。
その後1996年(平成8年)に出島復元整備事業計画が策定されると、2001年(平成13年)には全用地の公用化が実現します。
00年代(平成10年代)には出島内部の建物の復元が着々と進められ、2017年(平成29年)、出島と長崎市中を結ぶ出島表門橋が完成しました。
参考:長崎市『よみがえる出島オランダ商館』(2020年3月)、『出島』(2021年3月)
営業時間・入場料・ガイドツアー
営業時間は8:00~21:00、入場料は大人520円、高校生200円、小中学生100円です(15人以上で団体割引あり)。
一日4回(10:00、13:30、15:30、18:30)、定員10名での専属ガイドによるガイドツアーがあります(当日受付)。
出島周辺さんぽ
出島駅と出島水門
復元された出島(公式サイト)は、その西端が路面電車の出島駅すぐ隣に位置しています。
正面に見える風格のある建築物は、出島水門です。
オランダ船の来航時、船員の上陸や物資の出し入れ専用に使われていた門で、海に向かって開かれていました。
水門前に位置し、かつては海だったところに作られた出島駅は、1915年(大正4年)に末広町駅として開業した後、1939年(昭和14年)には出島岸壁前と改称され、1947年(昭和22年)に現在の”出島駅”となりました(参考:長崎電気軌道公式サイト100年史 “路線及び停留場変遷図“)。
港の改良工事後には”新しい長崎港”の方に注目が集まったものの、終戦を境にしてかつての出島が再び脚光を浴びる流れが作られた(前記)、というような一帯の変遷の中にあることを彷彿とさせる駅名の遍歴ですが、かつては海だったところが埋め立てられて現在のように進化したということを物語る跡が、路面電車降りてすぐのところから早速再現されています。
護岸石垣
水門に向かって左側には、
発掘調査で発見されたかつての石垣も残されていますが、その昔は水門から海に降りるために作られたという、この石垣がそのまま海に面していました。
出島はこの付近を西端として細長く(扇形の弧を描いて)東に向かって伸びているのですが、路面電車の線路は向かって右側、出島の南側に沿うように敷設され、新地中華街(公式サイト)方面へと向かっています。
この付近からは出島内に入れないので、表門橋の方まで歩く必要があります。
玉江橋とオランダ街道
出島のすぐ隣に架かる玉江橋の橋上からは、隣に出島表門を望むことも出来ますが、
橋を渡りきると、目的地方向に進む前に、ここが”オランダ街道”の終点となっていることを記す碑が置かれています。
オランダ街道は、17世紀初頭に設置された平戸・長崎の両オランダ商館跡を結んだ街道で、街道名は日蘭交流400周年に合わせ、2000年に命名されました(参考:2022年3月21日付長崎新聞 “「オランダ街道」自転車で走破へ 平戸の国際交流員ら111キロツアー 出島にゴール“)。
それぞれのオランダ商館の設置年は1609年(平戸)、1641年(出島)とやや間が空いていますが、2022年には共に”史跡指定”100周年を迎えています(参考:文化庁公式サイト “平戸和蘭商館跡“、”出島和蘭商館跡“)。
出島の対岸
出島の表門橋方面への道は幅の広い遊歩道となっていて、ゆとりをもって出島方面を眺めつつ歩ける空間が用意されています。
ところどころには、
かつての出島を解説してくれるおしゃれな説明板が用意されているので、
“かつて”に思いを馳せながらの街歩きがしやすくなっています。
復元された出島の護岸は現役時に比べると少し遠くなっているようです。明治期の工事の影響ですね。
出島表門橋
出島水門や路面電車の出島駅があった一帯からしばらく歩くと、現在も出島への唯一の入り口となっている、出島表門橋前へ。
橋を渡りきったところに、出島への入口があります。
出島内部へ
乙名詰所、石倉
入り口を入ってすぐのところから、かつての出島が広がっています。
写真左手にあるのは幕末の商社で使われていた石倉で、写真右手に位置するのは乙名詰所(”乙名”は出島の管理事務者であり、詰所は乙名が出島への出入りを監視するための施設です)、その前には”メインストリート”が広がっていますが、進行方向には蔵の他に豚小屋、牛小屋などが、
反対方向(出島水門が復元されている、海側)にはカピタン(商館長)、へトル(商館長次席)をはじめとするオランダ人商人の居住空間の他、日本人の通詞(オランダ語通訳)部屋や乙名部屋、蔵などが置かれていたようです。
写真の正面右側には、同じく幕末に商社で使われていた新しい石倉が設置されています。
出島内には旧交易関係の建物等が林立していますが(参考:出島公式サイト “建物の紹介“)、復元されたほぼ全ての建物は、内部を見学することが出来ます。
当時の様子が再現された部屋、発掘された遺物が展示された部屋、案内所、売店等々、それぞれの建物は新たに与えられた様々な役割を全うしつつ、現在の出島の一部となっています。
“扇形”とかつての跡
施設内はかつての扇形に沿うように、道も緩くカーブしています。
年代物を思わせる壁面や、
かつての出島で使われていた、オランダ製の陶製門柱(出島内の店舗で使用されていたようです)、
出島のミニチュア模型、
オランダ生まれの女の子ウサギ、ミッフィー(日本のミッフィー情報サイト)のオブジェ、等々。
新旧様々な要素が入り混じっていますが、恐らくはこの味わいもまた”出島の伝統”ですね。
旧出島神学校
出島外からも目を引いた施設としては、1878年(明治11年)に英学校として作られた後、1883年(明治16年)に出島聖公会の神学校となった”旧出島神学校”の建物があります。
神学校となった10年後、1893年(明治26年)に増築され、現在の姿となったようです。
旧出島神学校は日本初のプロテスタントの神学校ですが、禁教政策が取られていた”交易場”時代ではなく、その後の居留地時代の出島の姿を現在に伝え残しています。
現在、一階部分が休憩室となっています。
旧長崎内外クラブ
旧出島神学校のすぐ隣にあるのは、旧長崎内外クラブの建物です。
1903年(明治36年)、長崎在留の外国人と日本人の社交場として、イギリス人貿易商・フレデリック・リンガーによって作られました。
現在、建物一階にはレストラン(長崎内外クラブ。公式サイト)が、二階には居留地時代の展示が用意されていますが、旧出島神学校と旧長崎内外クラブは出島内部では異質にあたる、明治期の建物です。
オランダの交易場時代の出島ではなく、外国人居留地時代の出島の遺産ですね。
16世紀には海外(欧州)に開かれていた長崎、17世紀以降対欧州の窓口であり続けた出島にあっては”昨日までの日常”をより開放的にしたのが開国であり、”文明開化”といったところでそれは概ね流入物等の物量の違い、取り締まり形態の違いがもたらしたものでしかなさそうなところではありますが、それでも島内では”最新”のエリアなだけあって、ことさら華やかに見えてきます。
総じて、出島観光
入場時にもらえる無料パンフレットの他、売店で売られている”出島ガイド”がすごく丁寧に作られています。なので1~2冊手にしながらであればゆっくり納得しながら出島内を見学することが出来ると思いますが、そのほか出島ではスタッフによるガイドツアーも企画されています(一日4回、各回定員10人まで。公式サイト)。
プランが押している場合は時間を合わせることが中々難しいですが、タイミングがあえば使わない手はないですね。