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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/鶴ヶ城周辺の史跡1】桝形、遠藤敬止頌徳碑
北出丸・追手門枡形
鶴ヶ城(公式サイト)の大手口(正面入口)にあたる北出丸に設けられた、攻撃・防御のための石垣”枡形”です。
すぐ手前には、階段状の防壁である”大腰掛”が道の両側に作られています。
枡形の上に付された”追手門”は、大手門と同様に「正面入口に位置する門」を意味しますが、”大手”と”追手”はこの場合同義であるため、大手門と追手門、大手口と追手口についても意味合いが等しくなるんですね。
天守閣や旧本丸エリアから見た場合、北出丸に位置する追手門(大手門)枡形は、内堀の外側に隣接するエリアに位置しています。
手前には枡形の説明書きが置かれていますが、鶴ヶ城が(豊臣秀吉に仕えた戦国武将である)加藤嘉明の支配下にあった時代(一般によく知られている、保科・松平時代の一つ前の藩主です)に作られた設備です。
加藤嘉明時代には、枡形のみではなく北出丸、西出丸などの”丸”(丸=お城の軍事拠点です)も作られていますが、この時に作られた枡形は、西出丸や堀の東部からの攻撃とも連携することによって三方からの攻撃を可能としました。
仮に枡形を突破されることがあっても、その時には東西からの攻撃で城への侵略者を挟み撃ちできるという形ですが、”三方攻撃”は後の会津戊辰戦争時には最後まで敵の侵入を許さなかったなど、鶴ヶ城の堅牢な護りの柱となり、北出丸が”鏖丸”の異名を取ることの所以ともなったようです。
参考:一般財団法人 会津若松市公園緑地協会 『鶴ヶ城公園の碑』(平成28年5月26日)
一般財団法人 会津若松観光ビューロー『鶴ヶ城公式ガイドブック』(2021.10.31)
遠藤敬止頌徳碑
枡形から少し歩いたところには、今日の鶴ヶ城城址公園のルーツに位置しているという、二つの石碑が置かれています。
“遠藤敬止頌徳碑“ですね。
会津戊辰戦争後に開城され、後に(1874年に)解体されることとなった鶴ヶ城ですが、解体後の1890年(明治23年)、城の跡地(8万7千坪)を所有していた旧陸軍省が、2000円で旧藩主の松平家への払い下げを決定します。
この時に払い下げ費用を負担したのが、戊辰戦争を戦い抜いた旧会津藩士であり、”御一新”後は政府勤めの後に第七十七国立銀行の頭取となって東北経済の発展にも大きく寄与した、遠藤敬止さんでした。
遠藤敬止さんは私財2500円で払い下げを受けると旧藩主である松平家に寄付、遠藤さんから寄付を受けた松平家は1927年(昭和2年)に若松市へと譲渡、以降、改めて旧・鶴ヶ城跡地が城下町・会津若松のシンボルとなりました。
1971年(昭和46年)、この功績が称えられる形で、遠藤敬止顕彰会によって現在地に頌徳碑が建立されました。
参考:会津若松市公式サイト “鶴ヶ城趾保存の恩人 遠藤敬止“