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【横浜山手の坂道】ビヤザケ通り(本牧通りから山手地区へ)

横浜山手の坂道

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【横浜山手の坂道】ビヤザケ通り(本牧通りから山手地区へ)

ビヤザケ通りへ

ロケーション

ビヤザケ通り入り口付近には、市バス20系統(桜木町駅前~山手駅前)の”妙香寺前”バス停があります。

バス停の名前となっている妙香寺(公式サイト)は、9世紀(平安時代前期)以来の由緒があり、かつ近代史にも絡んでくる、そもそも所在地の住所がお寺の名前(中区妙香寺台)であるという古来よりの地域縁のお寺ですが、

このバス停前の道(バス通り)をまっすぐ進むとほどなく現れる坂道がビヤザケ通りです。交差点名になっているキリン園公園は、”キリン園公園入口”交差点の向こうにあるカーブの先に位置しています。

about “ビヤザケ”

通りの名前になっている”ビヤザケ”は、後にキリンビールとなる日本初のビール会社の工場が、かつてこの通り沿いに作られていたことに因んでいます。”ビヤ”とは”beer”=ビールのことですが、明治の世の”ビヤザケ通り”には、主に以下のような動きがありました。

明治3年(1870年)ウイリアム・コープランド(日本のビール産業の祖)が、日本初となるビール工場”スプリング・バレー・ブルワリー”を、現在のビヤザケ通り沿いに作る。
明治18年(1885年)スプリング・バレー・ブルワリーの土地・建物が、”ジャパン・ブルワリー”に引き継がれる。
明治21年(1888年)“ジャパン・ブルワリー”で、「キリンビール」が初めて発売される。
明治40年(1907年)ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぐ形で、現在のキリンビールのルーツとなる、麒麟麦酒株式会社が創設される(キリンの公式サイトでは2月23日が設立日となっています)。

明治3年の“スプリング・バレー・ブルワリー”創業によって日本にビール工場が誕生した後、明治21年には”キリンビール”が誕生、明治40年には現在のキリンビールの元祖となる”麒麟麦酒株式会社”が創業するのですが、”麒麟麦酒”は後に関東大震災(大正12年=1923年9月1日発生)で被災するまで、現在のビヤザケ通り沿い、キリン園公園と北方小学校がある地にて、醸造を続けました。

現在のビヤザケ通りの地味な人気の故は、やはり概ね”キリンビール始まりの地”キリン園公園があることによっているのですが、ビヤザケ通りを”山手本通りへのルートの一つ”としてみた場合、横浜山手に多少変わったアプローチをすることも出来ます(参考:本牧通りからの山手本通り歩き)。

山手本通りへの階段坂

ビヤザケ通り沿いは、”元ビール工場前通り”だったことの他、もう一つの顔を持ちます。

緩やかな坂道が始まってすぐのところに階段坂があって、丘の上には外国人学校(サンモール・インターナショナルスクール)があるのが見えますが、”ビヤザケ通り界隈のもう一つの顔”とは、明治期以来の文教地区としての顔ですね(界隈とは言っても、地図で見るとビヤザケ通り界隈ともいえる、というくらいのニュアンスが正確かもしれませんが)。

この階段坂は、横浜雙葉小学校、および校舎が視認できるサンモール・インターナショナルスクールの校門前を通り、横浜雙葉中学校・高校の敷地横から山手本通り元町公園前へと続く道につながっています。

上り始めて割とすぐのところで気が付くこととして、結構長い階段坂道となっていますが、

上りであれば上っても上っても階段が続き、下りであれば、下っても下っても階段が続きます。

キリン園公園

ビヤザケ通り沿いを歩いていくと、丁度サンモール・インターナショナルスクールの真横あたりで、上り坂の右側に”麒麟園”の名前が刻まれた門柱が姿を現します。

ここがかつてのキリンビールの醸造工場の跡地として残されている、キリン園公園です。

ビヤザケ通りの中心ともいえるこの公園の名物は、道沿いからでもひと目でわかる大きい石碑(1937年=昭和12年建立)ですが、石碑右側の案内板では「ここに、後にキリンビールとなる、日本初のビール工場があった」等々といったことがガイドされています。

ビール好き、特に麒麟好きにとっては聖地ともいえる公園ですが、かといって現在石碑の他には特に何があるでもありません。子供用の遊具などが置かれていて、しばしば近所の小学生等が遊んでいたりするのが現在のキリン園公園の日常風景です。ビヤザケ通りはバス通りなので注意が必要ですが、キャッチボールやフットサル程度なら十分できる広さがあるので、そこそこ人気はあるようです。

麒麟園公園のすぐ隣は、ビヤザケ通りです。

毎年春、通り沿いで満開になる桜の下には、”日本最初の麦酒工場”の碑が置かれています。

ビール井戸

“北方小学校前”交差点をそのまま直進すると、

北方きたがた小学校の敷地内、上り坂道右側に”ビール井戸”があって、

「この井戸は1895~1901年の間、ビールづくりに使われていました」と、井戸脇の案内板でガイドされています。

「井戸水を使ったビール造り」は、当時の横浜山手ではまだ井戸水(湧き水)が飲用として利用されていたことの名残りでもありますが、開国間もない横浜山手で湧き水を利用した地場産業(給水業や西洋瓦制作)が興っていたという特徴は、山手本通りを挟んだ向こう側、元町公園界隈にも”ジェラール水屋敷の地下貯水槽跡“や”ジェラールのレンガ工場跡“といった形で残されています。

ビール(キリン園公園)とビール(ビール井戸)の間が小学校であるという立地はなんともシュルですが、関東大震災被災による北方小学校の校舎全焼後、麒麟麦酒の工場移転に伴って、現在地に新しく校舎が建設されたことに依っています。

現在の北方小学校の校庭は、かつては湧き水でできた池になっていたようです。

坂道沿いの、二つの分岐

ビヤザケ通りからは、山手本通り方向へ分岐する、二本の坂道が通されています。

最初に出てくるのが”北方小学校前交差点“から派生した”セント・ジョセフの坂“、その次に出てくるのが”諏訪町交差点“から派生した陣屋坂です。

共に、上り方向に向かって左側に分岐があります。

アクセス

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