陣屋坂へ
about 陣屋坂
ロケーションと坂名の由来
陣屋坂は、山手本通りの横浜外国人墓地/ブラフ99ガーデン前付近とビヤザケ通り間を結ぶ坂道です。
薩英戦争およびその原因となった生麦事件、さらには長州藩と列強(英仏蘭米)間の武力衝突である下関戦争の発生など、血なまぐさい事件が頻発したことでもお馴染みである、開国間もない日本の激動期。
自国民を保護するためとして横浜に上陸した英国軍がこの地に陣取ったことから、”陣屋”坂と名づけられました。
生麦事件の発生が文久2(1862)年、薩英戦争の勃発が翌文久3(1863)年で、下関戦争もほぼ同時期(文久3-4年、1863-64年)に発生していますが、開国期の”陣屋坂”を取り巻く事情は、同時期の港の見える丘公園地区を取り巻く事情と重複する部分が多々あります。
英軍の駐屯は生麦事件発生を契機として文久3(1863)年より始まり、”維新”後の明治8(1875)年まで続きました(※)。
参考
- 【元町中華街エリア】横浜外国人墓地(山手本通り沿い、ブラフ99ガーデン隣、見尻坂傍)
- 【横浜山手の公園】港の見える丘公園・ブラフ99ガーデン
- 【横浜山手の坂道】ビヤザケ通り(本牧通りから山手地区へ)
- 【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港場と周辺エリア-
- 中区制50周年記念事業実行委員会『横浜・中区史』(昭和60年2月1日)(※)
入り口付近

ビヤザケ通りから陣屋坂に向かう場合、北方小学校前交差点でセント・ジョセフの坂方向に曲がらずそのまま直進し、一つ先の“諏訪町交差点”で上り方向に向かって左の道(一通表示が建てられた、細い路地)へ入ります。
参考
- 【横浜山手の坂道】ビヤザケ通り(本牧通りから山手地区へ)
- Yahoo!マップ “北方小学校前交差点“
- 【横浜山手の坂道】セント・ジョセフの坂(ビヤザケ通りから山手本通りへ)
- Googleマップ “諏訪町交差点“
山手本通りへの上り坂

陣屋坂への分岐は細い道で始まっているのでやや不安感を煽られもするのですが、分岐をつきあたりまで歩くと、つきあたり道なり右側、上り坂方向に二車線幅程度の道路が広がっています。

この坂道沿いには、かつて横浜インターナショナルスクール(以下YIS)の敷地が道路の両側に広がっていました。YISは現在本牧地区の新キャンパスへ移転済みですが、坂道右上付近に見える緑色のネットは、かつてのYISの運動場のものです。

ワシン坂についてまとめた別記事でも触れましたが(※2)、YISのキャンパス移転は令和3(2021)年を目途としたものです。移転が完了して久しい今となっては、”ここにキャンパスがあった”こと自体、結構昔のことのように感じなくもありません。
YISありし日の付近一帯には、バスケットコート、テニスコート程度の広さを持った運動場をはじめとする学校の施設や看板、通り沿いの建築物、聞こえてくる学生の声等々から、この一帯だけどこか海外から区画を持ってきたような雰囲気となっていました。

施設の老朽化や、キャンパス自体が元々手狭だったことなどに移転理由があるようですが、今後はさらにこの一帯の雰囲気も変わっていく事になるのかもしれませんね。
参考
山手本通りとの交差

陣屋坂を上りきると、正面には横浜地方気象台、右手が港の見える丘公園、左手すぐのところには横浜外国人墓地で、

振り返れば”陣屋坂”の碑銘と、緩やかな下り坂=陣屋坂がほぼそのまま視界に入ります。
参考
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