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【横浜街歩き】機械製氷発祥地(元町中華街駅元町口傍)
機械製氷のルーツ
機械製氷発祥の地
暑さの厳しい夏日・猛暑日が続く今日この頃。
毎日の生活の中に冷たい飲み物や氷があってくれることのありがたみをひしひしと感じられる日が続いていますが、そんな時節柄にピッタリハマる歴史的なスポットが、みなとみらい線・元町中華街駅の元町口出口傍のところに存在します。
元町口と、港の見える丘公園・フランス山地区入口や谷戸坂の中間付近、港の見える丘公園前を出たばかりの路線バスやあかいくつ号等(JR桜木町駅方面行き)が停車する”元町入口”バス停の傍ですね。
元町中華街駅を出た後、駅構内を背にして右側に少し歩くと、結婚式場・山手迎賓館の建物の丁度端あたり、
駐車禁止表示の奥に、
“機械製氷発祥の地”碑が置かれています。
迎賓館壁面の草に隠れて少々見えにくくなっているのがやや残念なところではあるのですが、概ね「横浜には天然氷を扱う会社はあったものの、機械製氷技術はまだ持ち込まれていなかった。そこに1879年=明治12年、日本で初めての機械製氷会社がこの地(現在、山手迎賓館が置かれている地)に作られた」ということが書かれています。
ボストン氷と国内製氷
当時の横浜に輸入されていた”目玉商品”の中に、アメリカはニューイングランド地方の河川・湖沼から採取された天然氷があったのですが、積み出し地の名前を取って”ボストン氷”と命名された氷は、世界各地で人気商品となります。
“ボストン氷”人気を受け、日本国内でも”氷”の需要が急増することとなった結果、1869年(明治2年)には函館・五稜郭で切り出した氷が”函館氷”として京浜地区で販売されるに至りますが、この”函館氷”が横浜居留地の外国人にも好評だったことから、やがて”製氷の機械化”が計画されます。
早くも”函館氷”の京浜地区販売の翌年(1870年=明治3年)、病床に付していた福沢諭吉先生のためにと、門下生(=慶應の塾生)が自動製氷機を使った製氷に成功しているようですが、その約10年後の1879年=明治12年には、横浜山手に日本初の機械製氷会社である”ジャパン・アイス・カンパニー”が設立され、一般消費者向けの人工氷販売が開始される運びとなりました。
時あたかも、現在のビヤザケ通り沿いに、後にキリンビールとなる”スプリング・バレー・ブルワリー”が設立された(1870年=明治3年)ころの話しですね(参考:about “ビヤザケ”)。
“ジャパン・アイス・カンパニー”はその後組織変更などを繰り返し、社名が”横浜アイス・ワークス”となった後にも製氷会社としての操業を続けますが、最終的には関東大震災後に設立されたニチレイの子会社、旧・神奈川日冷の山手工場として1999年=平成11年まで稼働を続けました。
120年に渡って機械製氷が続けられたということもあって、平成期には”現存する最古の製氷工場”となった時期もあったようですが、1999年に工場が閉鎖されると、2004年=平成16年には山手工場跡地に「機械製氷発祥の地」記念プレートが設置されました。
余談として、”横浜アイス・ワークス”時代の経営者であったストルネブリングさんは、関東大震災の犠牲となった奥さんのハナさん共々、現在は山手の外国人墓地で眠られています。
参考:ニチレイ公式サイトこおらす “氷と暮らしの物語“、ニチレイ公式サイト “ニチレイ75年史“、”旧神奈川日冷株式会社 山手工場跡地に「機械製氷発祥の地」記念プレート設置“、氷屋純氷 “氷の由来 〜日本の機械製氷の歴史〜“他