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【開国と開港/開港までの開港5都市】国内航路の発達と海外交易 その1

開国と開港

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“海外”と国内のつながり

日本列島が現在の地形になって以降に遂げてきた”独自の進化”は、外からの刺激を完全にシャットアウトしたことによってではなく、逆に”海外”からの適度な刺激を受け入れていくことによって成立しました。

“文字の使用開始とほぼ同時期”以降ということで”海外”とのかかわりを追うと(それ以前について、参考:日本の成り立ち、海運事情の源流)、影響を受けた様子が”文字”の記録と共に日本国内に残されるのはおよそ5世紀あたりからです。

例えば、古代中国から文字と同時に伝来したものには暦や時計(一定の流水量下で水がたまる時間を基準とするという、水時計)がありますが、これらの伝来は時間の記録から年号制の開始、さらには各政治・行政制度の創出史書の編さんへと結びつきます。

この時期、まだまだ国内は統一されるに至っておらず、東アジア全域も不安定要因を抱えたままの状態ではあったのですが、当時の日本が古代中国の王朝や、古代の朝鮮半島に林立していた複数の国家からの影響を強く受けていることも、文字記録や成長の足跡自体に残されています。

まず聖徳太子の時代(6~7世紀)、”飛鳥文化”を担ったのは百済から日本へ渡って来たという渡来人たちで、仏教や儒教も、この時に百済経由で日本へ上陸しました。

魏晋南北朝時代後に成立した統一王朝・隋から直接という形ではなく、隋の影響を受けた百済から影響を受けることになったという形ですが、その後中国大陸では隋が滅び、唐が興ります。

このころの日本国内では、ほぼ同時期に起こった”乙巳の変”に始まる大化の改新によって、政治体制の大幅な刷新がはじまります(7世紀半ば~)。新王朝である唐に倣う形の、いわゆる”律令国家”作りが始まった時期で、”律”(刑法)と”令”(行政法)という法律を柱とし、皇室を中心とした中央集権的な国づくりが試みられた、という形での国内整備が進みました。

隋・唐を頂点とする朝貢関係(冊封体制)がすでにそこにあったとはいえ、その体制はただ王様と奴隷のみが存在するような関係性によって成り立っていたものではなく、先進国である唐を筆頭とし、唐の影響力が強かった状況でありつつも、日本海を隔てて日本が関わり、かつ朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が鼎立ていりつしていたなど、実際には各国が割拠する状況が作られていました。

中国大陸の隋・唐、朝鮮半島の高句麗・新羅・百済・渤海、そして日本という”古代の東アジアネットワーク”圏内に位置した国々は、それぞれが一個の独立国としてのかかわりを維持する形でコミュニティを形成していたことを感じさせますが、総じて”コテコテの朝貢国”を思わせる要素自体が各国に希薄であり、高句麗・新羅・百済・渤海各国についても、高麗や李氏朝鮮(後述)以降の朝鮮半島とは明確に異なる様相を呈していたのであろうことが推測されます。

ということで、以降の日本の”対東アジア”外交は、内政や国際情勢のありかたによって方針が左右される時代が続きます。”開かれている”時代の方が圧倒的に長かったとしても、その関わり方が時代によって大きくかわって来るという形ですが、主には宋、明、清といった中国大陸の王朝国家を相手国とする外交へと推移します。

さて、時の日本で唐を規範とした律令国家体制が安定してくると(奈良時代から平安時代にかけての話しですね)、反対に中国大陸では唐が衰退から滅亡へと至ったことによって、波乱の時代が到来します。この動きに呼応する形で進められたのが遣唐使の廃止などに典型が見られる”孤立主義”的な外交姿勢で、結果として平安時代の日本国内では独自の成長が進み、国風文化が開花しました。

やがて平安時代末期、地方行政の乱れ(特に地方役人の横暴や荘園の荒廃など)を端緒として、貴族政治の時代に陰りが見えてくるのですが、ここに始まるのが、再び中国大陸との交流が持たれることとなった、武士の時代です。

“武家の時代”に先鞭をつけた平家の棟梁・平清盛は、唐の後に興った統一王朝である宋を相手とした日宋貿易で莫大な利益を上げていますが、大輪田泊(参考:兵庫津と兵庫港、神戸港)が改めて整備されたという時代に始まった貿易は、その後鎌倉時代にも継続します。

宋との間には正式な国交無きまま、私的な貿易が活発化するという状態で進みますが、経済面では大量の宋銭が国内に流通することによって貨幣経済が活発となり、金融業の興りが見られたほか、鎌倉五山や京都五山を通じて、日本の文化・政治が禅宗の影響を多大に受けることとなりました(参考:鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史)。

禅宗の有力寺院を発信源とする”五山文化”華やかなりし室町時代には、建長寺(鎌倉五山第一位)や円覚寺(同二位)、南禅寺(五山の上)や天龍寺(京都五山第一位)といった禅宗の有力寺院が国内の文化をリードする形で、公家の文化と武家の文化、貴族文化と庶民文化、大陸文化と国内文化、地方文化と中央文化等々、対になっていた種々の文化が統合されると、”日本文化の源流”ともいうべき文化が醸造され、国内全域に広まることとなりました。

足利義満時代の北山文化に始まり、足利義政時代の東山文化で成熟の時を迎えたという室町文化の時代、日本独自の文化が形成される過程にも、海外からの影響(禅宗の影響)が含まれていたという形ですね。

ここにおいて先史時代より続いて来た”日本”の文化・社会の成長が一つの到達点に達した状態となり、中国大陸とのかかわりにしても新たに日明貿易(勘合貿易)の形で再開されるに至っていますが、そんな時に時の日本に到来することとなったのが、日本にとっては未知の刺激であった”西欧との邂逅”です(参考:”対西欧交易”と長崎港の開港)。

九州の南端に位置する種子島にて始まった縁は、一旦オランダ一国との交易に落とし込まれる形となりますが、それから約300年の後、最終的には5港を開港するという形で、まずは5か国に対して日本が世界に開かれることとなりました(参考:日米和親条約と日米修好通商条約)。

参考:NHK “古代・中世の朝鮮半島“、鐘江宏之 “律令国家と万葉びと”(小学館、2008.2.28)ほか

以下は余談ですが、古代から中世への東アジア情勢について。

14世紀末の朝鮮半島では、李氏朝鮮が成立します。

李氏朝鮮は”事大主義”(明確な信念無しに強いものに迎合する姿勢)の起こりがあったとされる王朝国家で、開祖である李成桂りせいけいの出自も不明であるとされますが、高麗を滅亡に追い込んだ”易姓えきせい革命”によって成立すると、明から与えられた”朝鮮”を国号として明(のちに清)の属国となりました。

易姓革命とは、「天命によって支配者の”姓”が変わった(易=変わる)」、すなわち支配者の入れ替わりが天命によっておこったのだと判断される革命のことです。

元々は古代以来の中国(諸子百家・儒家の経典由来)の思想であり、中国では、代々王朝の交代を正当化する理論として発展を遂げて来ました(諸子百家について、参考:長崎孔子廟)。

易姓革命では”当代の統治者が天命によって選ばれた”と言う命題の他、”前統治者を否定することによる当代への権威づけ”も核となるため、しばしば旧支配者一族の殲滅や”前政権”の破壊等を伴うことになる、要は争いを力で封じ込めていくという面を持っています。

そのため、ときに後の世にとっての有益な文化まで破壊してしまうこともあるという難点を持っているのですが、朝鮮半島では、高麗や李氏朝鮮(ともに朝鮮半島の統一王朝です)がこの易姓革命によって興りました。

朝鮮半島統一後ほどなく元に服属した高麗が、”元寇”ではモンゴル帝国・元を全力バックアップして日本に攻め込んだことは歴史論争においてしばしば指摘されますが、他にも、高麗の後を受けた李氏朝鮮が度々対馬に攻め入って来た(ex.応永の外寇)など、”元・明・清の属国”化が鮮明となった高麗以降の朝鮮半島では、大勢を見据えた外交が柱となっていたかつてとは異なる形で、”日本”との友好関係そのものに疑問符が付く時代が到来します。

元寇が倭寇を誘発し、倭寇が応永の外寇を呼び込んだといった形で、ただただ両国間に”恨みの連鎖”が生じてしまう流れが出来て行くんですね。

室町時代以降も”通信使”でつながっていたとはいえ、そこにあった主目的はといえば、交易によって得られる”実”であったというよりは、やり取りを通じた友好関係(正式な国交)の確認であり、その結果として逆に「そうではなかった」現実の存在(高麗による元寇の片棒担ぎや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役などを原因とする禍根)が鮮明になることとなった、といった時代が到来します。

元に服属後の高麗や、明・清の属国となって継続した李氏朝鮮は、後高句麗から高麗へ、高麗から李氏朝鮮へという二度に渡る”易姓革命”の向こう側にある古代の朝鮮半島(高句麗・新羅・百済・渤海などの国々)との間には、やや(?)距離を感じさせる国家でもあります。

“やや”というか、忌憚なくいえば、双方にはほぼ別物に見える節があるということですね。

このギャップについては、「この時期を境として、朝鮮半島に別の民族が入り込んだのだ」などという真贋定かならぬ説が主張されることもありますが、もっと単純に、”属国化”への過程にそうならざるを得ないような熾烈な現実が含まれていたのだ、ということなのかもしれません。

ともあれ、対朝鮮半島外交を考えた場合、高麗・李氏朝鮮あたりの統治期を境として、国の在り方や日本とのかかわりが”かつて”とは異なるものに変質します。

極論すれば、朝鮮半島の歴史は「”高麗”を境として、国の中身自体が”古代”のそれとはまるで別物になって行った」「結果、日本とのかかわりについても変質が必然となった」ということではあるのですが、一方で四方を海に囲まれた日本では、海外からの刺激を受け続けつつもそれによって完全に潰されるというようなこともなく、やがてその”独自性”にもさらなる磨きがかかっていくこととなりました。

参考:+αオンライン500年も続いた李氏朝鮮、実は設立時から中国に服属していた“、”元寇の謎。なぜ高麗王は率先して、日本を侵略しようとしたのか

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