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【冬の終わりの札幌へ その6】札幌市時計台(札幌市役所前、大通公園傍)

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【冬の終わりの札幌へ その6】札幌市時計台(札幌市役所前、大通公園傍)

時計台と札幌農学校、札幌市

札幌農学校の演武場として

札幌市時計台(公式サイト)は、現在の北海道大学の前身である札幌農学校の演舞場・中央講堂・研究室等として現在地より100メートルほど北側に作られ、モデル校となったマサチューセッツ州立農科大学に倣う形で設けられた、武芸科(兵学科)の授業などが行われていました。

ちなみに札幌農学校のモデル校となったマサチューセッツ州立農科大学は、現在のマサチューセッツ大学アマースト校(公式サイト)の前身です。

この建物に時計塔が設置されたのは、現在地への移転前である1881(明治14)年の話です。

やがて”時計台”として施設名にその名を付すことになる(想定以上に大きかった)塔時計は、海外(アメリカ・ハワード時計会社)からの輸入品であり、貿易港・横浜を経由して札幌に渡ったようです。

パネルによる解説では、かつての時計台が札幌農学校の施設として設計された時の原案も展示されていますが、研究機関を兼ねた教育施設感が満載です。

現在の時計台とは異なる”時計台”を、そこに見出すことが出来そうです。

現在の”時計台”へ

札幌農学校の演武場が”時計台”と呼ばれるようになったのは、札幌中心部の街区整備に伴って現在地へ移転した明治39年(1906年)以降の話しですが、”時計台”が現在の機能を有するようになったのは、昭和も半ばを過ぎた昭和42年(1967年)のことで、

以降、札幌の歴史を展示する施設として利用されながら今に至ります。

クラーク博士

館内では札幌農学校の歴史の他、時計台の歴史や北海道の郷土史、時計台を絡めた文化史、道内の文化財等々についての展示が常設で行われているほか、ホールとなっている二階では、かつての講堂の様子が再現されています。

壇上のベンチには、札幌農学校初代教頭のウィリアム・スミス・クラーク博士が座っていて、

一緒に記念写真を撮ることも出来ます。

“Be Gentleman”と”boys, be anbitious!”

クラーク博士は、明治10年(1877年)に札幌農学校に着任すると『札幌農学校の基礎を作り、”Be Gentleman(ビージェントルマン=紳士たれ)”という学業の鉄則を教え、現在の北海道大学の全人教育方針の基本理念を残し』(『 』内、☆1:札幌市公式サイトクラークとモデルバーン“より引用 )、同年に札幌を離れた先生です。

世間一般的には、”boys, be ambitious!”の名言を残した先生として知られています。

現在の北大の行動規範、教育研究にかかわる基本理念にも、クラーク先生の提唱した”全人教育方針”が含まれていますが、これは『「ジェントルマンは、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られるのではなく、自己の良心に従って行動する」という考え』(☆1より引用)がベースとなっているものです(参考:北海道大学北海道大学行動規範等“)。

“boys, be ambitious!”も”Be Gentleman”も、双方ともに札幌農学校及び北海道大学がクラーク先生の理想を継承したことと軌を一にする名言・行動規範ではあるのですが、”Be gentleman”とも親和性の高い、今や北大の代名詞ともいえる知名度を持つ”boys, be ambitious!”にまつわる逸話(=札幌農学校を去るにあたって学生に送った言葉がそのまま名言として語り継がれた、という話)については、昭和39年に朝日新聞の名物コラム「天声人語」が世に広めた、真贋定かならぬ話が元になっているようです(☆2:北海道大学附属図書館“Boys, be ambitious!”について“)。

“boys, be ambitious”という名言は、結果として後世に伝わった眩しさをはじめから持っていたわけではなく、元々クラーク博士が理想としていた”Be Gentleman”という学業の鉄則(全人教育方針)とも相性がいいものであったこと、さらにはクラーク博士が札幌を去ってしばらくした後で掘り返されている(クラーク博士の帰国は明治10年、逝去は明治19年、”名言”の初出は明治27年です。☆2)ことなどから、『この言葉は長い間埋れたのち, 札幌農学校が確固たる基盤を獲得し,学生たちの間に 自信と誇りが培われた頃に思い起され,特別の意味を与えられるようになった』(『 』内、☆2より引用)と捉えるのが本当のところであるようです。

五稜星

二階では、時計台にもついている星のマーク=五稜星についての説明もなされていますが、五稜星はかつての開拓使のシンボルで、サッポロビールの星のマークと全く同じ由来がある他、道庁の旧本庁舎や中島公園の豊平館でも使用されています。

参考:北海道公式サイトようこそ赤れんが庁舎“、サッポロビール公式サイト1876年の年伝説 五稜星が意味するもの”、:札幌市公式サイト星のある建物たち

上げ下げ窓、時計装置、新渡戸稲造

横浜山手の西洋館では今も現役で使われている(イタリア山庭園にあるブラフ18番館の窓が、一部このタイプのものだった記憶があります)という、

かつての時計台で使われていた上げ下げ窓の展示や、

お金を入れるとピカピカ光る時計台のミニチュア(結構豪快に光ります)、

札幌農学校時代に設置されていた塔時計の装置、

及びその説明書き、

名著『武士道』の著者であり、国際連盟事務次長、旧制一高校長・東京女子大初代学長などを勤めた、札幌農学校の卒業生である新渡戸稲造自筆の書などなど。

史跡巡りに多少なりとも興味があれば、割とお腹いっぱいになれるであろう施設となっています。

なぜ「がっかり」なのか

札幌の時計台というと、しばしば「日本三大がっかり観光地」の一つであるなどと揶揄されることがある、あまり評判のよろしくない施設だというイメージ(先入観)が先行することがあります。

なぜかと問われれば答えは一つ、周囲を高層ビルに囲まれていて、時計台内からもその様子が確認出来てしまうなど、周辺環境がかつての姿をとどめておらず、観光スポットらしくないということにあります。

ちなみにこの点(観光スポットらしくない周辺環境が”がっかり”の根拠となっている点)は他の二つの”がっかり”スポットであるとされるオランダ坂長崎市公式観光サイトオランダ坂)、はりまや橋(高知市公式サイトはりまや橋“)にも共通する理由のようです。

時計台に関しては、史実と都市伝説が混在する多くの逸話を持つ将門塚(千代田区観光協会公式サイト将門塚“)ほどではありませんが、ロケーションが都心そのものであることは全方位から伝わってきます。イメージで語るのであれば、同じ札幌市内の羊ヶ丘展望台公式サイト)のようなところにあってほしかったというのが、”がっかり”と評した多くの観光客にとっての率直なところではあるでしょう。

元々今の時計台の隣には、昭和30年代まで移転前の豊平館(現在は中島公園内に移築されています)が建てられていたようです。もし時計台と豊平館が今でも大通公園傍で並び立っていれば、などと考えると、やはりどうしてもそそられる気持ちが出て来てしまうというのが本当のところですからね。

アクセス

大通公園のテレビ塔からは至近距離、北海道庁も徒歩圏内にあります。

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