【街歩きと横浜史】開港広場と周辺エリア

開港広場一帯

この記事を読むのに必要な時間は約 6 分20秒です。

【街歩きと横浜史】開港広場と周辺エリア

開港広場公園

開港広場公園は日本大通りのすぐ隣にある、「ここから横浜が始まった」「ここから日本の近代化が始まった」一帯です。幕末から明治にかけての激動の歴史を持つため、付近には当時の史跡も密集していますが、

山下公園側から見た開港広場前の交差点付近、開港広場公園は進行方向左手にあります。

中央に見える塔が”キングの塔”こと神奈川県庁本庁舎、その手前(開港広場となり)にあるのが旧・イギリス総領事館、現在の横浜開港資料館です。

進行方向右手が大さん橋方面、左手はハマスタがある横浜公園方面ですが、この位置からだと横浜中華街も左手に位置しています。

交差点付近は、夜もぼちぼち開港場、港町の夜っぽい雰囲気を醸しています。

奥に控えたキングの塔、手前に位置する開港資料館と、その向かいにあるレストラン”SCANDIA“のネオンの故でしょうか。開港広場公園自体は、昭和57年(1982年)、現在の形に整備されました。

 

和親条約と修好通商条約

日米和親条約調印の地と、日米和親条約

広場入り口には、”日米和親条約調印の地”と書かれたオブジェと、その解説板が置かれています。

それぞれ、オブジェの方には「調印の地」、解説板の方には「締結の地」とあります。

時の江戸幕府の対応に痺れを切らしたアメリカが、軍事力を背景とした威嚇と共に開港・開国を迫って日本に上陸した、まさにその上陸地点がここ、開港広場付近です。

ペリー一行が開港広場付近に乗り込んだあとの日本側代表とアメリカ側代表は、現在の県庁敷地内にある「神奈川運上所跡地」付近にて日米和親条約を締結するに至りますが、こののち、イギリス、オランダ、ロシアとの間にも、それぞれ相次いで「和親条約」が締結されます(フランスは締結せず)。

日米和親条約は、神奈川(宿付近の横浜村)にて締結された条約であることから、別名で神奈川条約とも呼ばれます。

「横浜条約」とならなかったのは、当時の知名度・ネームバリューは圧倒的に神奈川の方が上だったためですね。

 

和親条約と修好通商条約

日米和親条約=神奈川条約は、アメリカに対する日本の開国・横浜等の開港を取り決めたほか、他列強との和親条約締結、さらには日米の交易開始を取り決めた日米修好通商条約締結への突破口となった条約にもあたりますが、日米「修好通商条約」もまた、他列強と締結した通商条約のプロトタイプとしての意義を持ちます。

まずはアメリカが条約締結する、引き続き他列強がそれに倣うという、和親条約締結時同様のパターンが、修好通商条約締結時にも繰り返されることとなったわけです。

ということで、和親条約をベースとして通商条約が結ばれたと言う形式は、アメリカをはじめ、列強(イギリス、オランダ、ロシア)との外交関係でも原則となって進みますが、この時期の日本が締結した全通商条約は、まとめて安政の五カ国条約とも言われているように、結局アメリカを含む五カ国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)との間に締結されます。

 

条約締結後の英米仏

ところで、開港広場において日本との通商開始の突破口を開いたのは、当時の国際社会の新興国だったアメリカです。

より直接的には、フィルモア大統領の国書を持った、司令長官・ペリー提督とアメリカ東インド艦隊が強行突破した結果の締結なのですが、条約締結による開国・開港後の日本との関係においては、当時の世界の覇権国であるイギリスが”最有力”の立場を築き上げました。

これは、そもそも当時のアメリカがイギリスから独立して間もない国であり、欧州の争いに対しては不干渉を貫くことを国是としていた一方で、欧州および世界を舞台とした植民地闘争で長年のライバル関係にあった英仏が、幕末日本でも真っ向から対立し、最終的には討幕勢力を支援していた英国優位で事が進んだことに理由があります。

アメリカが先陣を切って幕府との外交・通商を進めていく傍らで、最終的に幕府が倒され、薩摩・長州の藩閥を柱とした新政府が成立したことによって、当時(19世紀半ば)の世界で最強だった英国が、日本でも最も影響力のある国となって行くわけです。

この点、開港期から昭和の初めに至る横浜の跡を追っていくと、当時の事情を裏書きするかのように、イギリスの影響を強く受けていることがわかります。

たとえば開港広場のすぐ横に総領事館、港の見える丘公園の中心部に総領事公邸(現・横浜市イギリス館)があったことの他にも、山手地区にはかつて英軍が陣取ったことに由来する陣屋坂がある、英国軍の軍楽隊員(ウイリアム・フェントン)の指導を受けた薩摩藩の軍楽隊が、日本で初めて吹奏楽(国歌・君が代)を演奏した地が山手公園傍(妙香寺)にあるといったように、そこかしこに足跡を残しています。

不平等条約として悪名高い安政の五か国条約は、明治維新後も長らく日本の足かせとなっていく条約なのですが、兎にも角にも日米和親条約の締結は、近代日本にとっての一大転機をもたらしました。

その結果の都市・横浜の成長・発展の跡も、開港広場内の碑石に残されています。

 

旧イギリス総領事館(現・横浜開港資料館)

日本大通り側から見ると開港広場が庭のように見える位置関係にあるのですが、

開港広場のすぐ隣には旧イギリスの総領事館、現横浜開港資料館(公式サイト)が置かれています。

旧英国総領事館の由緒書きと、

開港資料館の表札。

英国総領事のかつての公邸は現在港の見える丘公園内にある横浜市イギリス館、開港広場横にあるのは総領事館(総領事の職場)です。

敷地内には、ペリー来航時の様子がプリントされた石板が置かれています。

現在、開港資料館の中庭に立っているたまくすの木は、

この絵の右側に描かれた木から育った木だといわれています。

開港広場側から、少し中に入ったところから。右手がたまくすです。

海側に進んでも出入り口がありますが(正面の木がたまくすです)、

日本大通り側からも開港資料館に出入りできます。

 

英一番館跡

交差点のすぐ向こうには、

日本初の外資系企業である、ジャーディン・マセソン商会の日本支社跡があります。

同商社は通称で”英一番館”と呼ばれていたようですが、

英一番館の「一番」とは、かつての山下町の地番(山下町一番地)を意味します。

この住所は現在も引き継がれていて、現在の山下町一番地には、シルクセンターや英一番館の跡地があります。そのほか、かつての会社とは別の同名のレストラン(英一番館 公式サイト)や、その名を連想させる”英一番街(公式サイト)”というショッピングアーケードも、やはりこの付近にあります。

ちなみにジャーディン・マセソン(公式サイト)自体は、かつてのような単体の商社としてではありませんが、イギリスの企業グループの持株会社として現存します。

ジャーディン・マセソンのホームページ、社史の2ページ目には横浜の記載がありますが、横浜への進出について”In 1855, JM & Co inaugurated the steamer cargo line from Calcutta to the Far East. The Firm became the first foreign trading house to establish in Japan by acquiring Lot No. 1 in the first Yokohama land sale”(1855年、ジャーディンマセソン商会はカルカッタから極東への貨物船ラインを開設し、日本においては横浜で、海外勢で初めて土地を取得すると、日本初の外資系企業となった)とまとめられています。

余談ですが、当時のジャーディン・マセソン商会に雇われ、同商会の長崎支社=グラバー商会を立ち上げたのが、若きスコットランド商人・トーマス・ブレーク・グラバーです。

早い時期から生糸が主力となっていた横浜での貿易(参考 税関HP “横浜港の主要輸出入品目“)に比べ、長崎での貿易では雄藩を相手とした武器・弾薬・軍艦などの取引が主力となる(長崎市公式観光サイトグラバーって、どんな人?“)など、取引自体が当時の時勢を思わせるものだったという点に、長崎での貿易の顕著な特徴があります。

当時グラバーが居住していたグラバー邸を中心としたグラバー園は(リンクはともに公式サイト)、現在も長崎の有名な観光スポットになっています。

 

アクセス

開港広場

 

旧イギリス総領事館(現・横浜開港資料館)

 

英一番館跡

タイトルとURLをコピーしました