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【横浜山手の公園】山手公園(山手本通り、カトリック山手教会傍)
山手公園へ
公園内の様子
公園坂から上った場合や山手本通りから下ってきた場合の、山手公園(公式サイト)入り口付近です。この入り口のほか、本牧通り側に通された桜道沿いにも、山手公園の入り口が用意されています。
入り口付近には”日本庭球発祥の地”が置かれていて、
すぐ傍にはテニスコートへの入り口がありますが、
テニスコートの周囲には、特に新緑の季節は、一面緑が生い茂ります。
公園中ほどにあるテニスコートの入り口付近には国指定名勝の碑が置かれていて、テニスコートの向こうには、かすかにテニス発祥記念館が見えています。
テニスコート横に広がる芝生の広場には、
東屋=ガゼボも用意されています。
テニスコートや旧山手68番館傍の芝生スペースは、気候がいい季節の晴天日などにはとても居心地のいい空間になってくれますが、
すぐ隣には、丘の斜面部分が山手公園の一部となっているエリアがあります。
about 山手公園
近代横浜の始まり -開港地での共存-へ移転しました(2024.3.10配信予定)。
彼我公園(=横浜公園)との比較
ほぼ同時期(1875年=明治8年)に作られた横浜公園との違いは、横浜公園が”彼我公園”と呼ばれ、日本人・外国人共用の公園とされたことに対して、山手公園は外国人居留民専用の公園として造られた点にあります。
そもそも彼我公園は開港場近くに作られた港崎-みよざき-遊郭跡地の公園であったため、従来より日本と海外の歩み寄り的な含みが持たされた地であったとも言えますが、一方で外国人居留地内に作られた山手公園に何が求められたのかといえば、まずは外国人居留民にとっての安全と、憩いの場であることでした。
ということで、山手公園の門戸が日本人にも開かれることになるまでには、明治3年の開園(1870年)から半世紀以上の時間を要する(1929年=昭和4年)ことになります。
横浜山手・テニス発祥記念館
別記事に移転しました。
旧山手68番館
別記事に移転しました。