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山下橋(山下公園傍、山下ふ頭・新山下エリア間)

山下公園

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山下橋(山下公園傍、山下ふ頭・新山下エリア間)

山下橋

about 山下橋

昭和36年11月に竣工した現在の山下橋は、山下ふ頭と新山下エリアの間に架けられた橋です。

橋の東側はすぐのところから港になっていますが、堀川上では、すぐ隣(西隣)に歩道橋であるフランス橋が、その向こう(更に西隣)に谷戸橋が架かっています。

山下橋自体は、新山下地区(平成半ばに埋め立て竣工)と山下町(昭和半ばで埋め立て竣工)の間に位置していて、かつ、双方の都市計画の狭間に作られているようにも見えるだけあって(参考:横浜市公式サイト “新山下の街づくり 歩み“、”山下ふ頭“)、時期的には山下ふ頭の工事に合わせて作られた感のある橋ではあるのですが、どうやら”そこで初めて架けられた”という橋ではないようです。

市史や区史等を読んでいると、どこか”気が付くといつの間にかそこにあった”感の塊のような橋に見えてくる節があるのですが、現在の山下橋は、”最初の”ではなく”最新の”山下橋です。

“関東大震災 横浜市震災誌”第二冊・第四章には、”(堀川の)最下流にある山下橋”が震災に耐えた様子が記録されている他(横浜市公式サイト震災誌第二冊・第四章“)、戦前昭和期の写真では”鉄橋”として作られている山下橋の様子が確認できるのですが(横浜都市発展記念館モダン横浜歴史情報マップ 横浜港防波堤“)、その一方で「(幕末の居留地時代に)山下橋の袂に関内・関外の通行の見張り役となる関所が設けられていた」というような記録は、今のところ特に見当たりません。

関東大震災以前にすでに架けられていた、震災に耐えうるほど立派な橋だったという条件からは、谷戸橋前田橋西の橋と同じタイミングで(幕末期に)架けられた橋だったというよりは、やや後発(特に鉄鋼業が進化した明治末期以降)で架けられた橋であることを感じさせられますが、思うに初代の山下橋は、関所が撤廃された明治4年(1871年)以降、関東大震災発生年である大正12年(1923年)までのどこかで架けられた橋だという可能性が高そうではあります。

現在の山下橋については、老朽化あるいは新規の都市計画等を理由として、”先代”以前の山下橋が昭和の半ば(36年)に架け替えられた、といった事情があるのではないかと思いますが、橋の由緒についてはともかく、現在堀川に架かる橋の中では恐らく交通量が一番多い橋です。次点に西の橋が来るか、あるいは山下橋と西の橋がほぼ同じくらいか、といったところでしょう。

ということで、堀川の両端に架けられた山下橋(東端)と西の橋(西端)は、堀川に架かる6本の橋の中でも、”高架の下の、交通量が多い橋”といった点で、どこか似た雰囲気を持っています。

ロケーション

みなとみらい線元町中華街駅元町口)下車後、港の見える丘公園フランス山地区入口方面に向かって伸びた道をそのまままっすぐ歩いていくと、”山下橋東”交差点へと進みます。進行方向左手には、山下公園通り山下公園前方向へと向かう横断歩道が伸びていますが、この先に架けられた橋が山下橋です。

元町中華街駅側の欄干には、橋の名前ではなく川の名前が記されています。

首都高速狩場線の下、高速の高架に直交するように架けられた白い橋は、港の見える丘公園内から山下公園方面に向かって伸びたフランス橋で、フランス橋の下に架かっているように見えるのが、元町中華街駅前、元町商店街のオブジェ傍から始まって本町通りへと繋がっていく、谷戸橋です。

橋上から、進行方向に位置するマリンタワーがはっきり見えるのも山下橋が持つ魅力ですが、

渡りきった位置にある、山下町側の欄干には、橋の名前がひらがなで刻まれています。

進行方向は山下公園通り、

左手は中華街方面、

右手は山下ふ頭方面です。

反対側の歩道から、新山下方面へ。欄干には”昭和36年11月竣成”とあります。

すぐ傍には、河岸に降りて行けるような階段が作られていますが、かつてはここからも船に乗ることが出来たということでしょうか。現在は完全に封鎖されています。

どちらかというと”らしい”景色が望めるのは、海側の歩道の方かもしれません。山下橋上に通された高架・首都高速狩場線はここから一旦大きく右(南東方向)に向かって反れた後、本牧ふ頭(A突堤)上で首都高速湾岸線に合流し、北東方向に位置する横浜ベイブリッジへと向かいます。写真左手から首都高の高架下に向かって伸びた道路は、山下橋交差点と本牧ふ頭をつなぐバイパスで、首都高の新山下インターや本牧ふ頭インターと結ばれています。

道路ではなく”港”に視線を移すと、ボートや釣り船が多数停泊していることがわかりますが、新山下エリアは、横浜港や東京湾へ釣りに出る時の一大拠点となっています。この様子は、首都高の山下町出口(首都高ドライバーズサイト山下町“)付近からも望むことが出来ますが、”その昔の横浜”が今に残されている部分ですね。

橋を渡りきると、欄干には漢字表記で”山下橋”と記されていて、

橋を渡ってすぐのところには、釣り船屋さんが集まっている通りがあります。

山下橋上に通された道路は、山下公園前から伸びて小港の交差点まで続く、横浜市主要地方道82号線です。”82号線”は山下町と新山下の海沿いに通された通りですが、山下公園前の部分は、通称名で”山下公園通り”と呼ばれています。

市営バスのルートとなっている他、地域一帯の物流の大動脈の一つとなっているので、昼夜を問わず交通量は多いです。

アクセス

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