山下臨港線プロムナードと”開港の道”(新港ふ頭、象の鼻パーク、日本大通り傍)

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about 山下臨港線プロムナード、開港の道

山下臨港線プロムナード -最短ルート-

山下臨港線プロムナードは、2002(平成14)年にみなとみらい線沿線のベイエリア(新港ふ頭-山下町間)に開通したという、比較的新しい遊歩道です。旧国鉄・山下臨港線(横浜臨港線の延伸部分、後述)の廃線跡の一部が、現在の遊歩道の基となりました。

“プロムナード”へのみなとみらい線最寄りは、日本大通り駅です。

駅下車後、情文センター口から徒歩でおよそ10分程度、山下公園西端のトイレ付近にあるプロムナードの入り口を目指します。

参考

汽車道+プロムナード -廃線跡を辿る街歩き-

初代横浜駅前(現JR桜木町駅)付近、日本丸傍から始まる汽車道を歩いて進んで新港ふ頭内、横浜港駅跡へ、

横浜港駅跡からは、新港ふ頭と象の鼻パークを結んだ”新港橋梁”を目指します。

新港橋梁を渡った先で”象の鼻パーク”の外縁を道なりに進み、日本大通り、大さん橋傍から山下公園へ向かうのが”山下臨港線プロムナード”です。

“汽車道”+”プロムナード”は概ね、馬車道駅エリアの海沿いから日本大通り駅傍の海沿いにかけてつながっているので、横浜都心部でちょっとした”廃線跡を辿る街歩き”を楽しむことが出来ます。

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“開港の道”で、山下公園から港の見える丘公園へ

開港以来の横浜と共にあった風景の中を廃線跡を辿って進んだあとは、残りの道も海沿いの公園伝いに、みなとみらい線の終点・元町中華街エリアまで進むことが出来ます。

“プロムナード”を降りた後は横浜港/ベイブリッジを真横(進行方向左手)に見ながら、山下公園を西から東へ横断し、山下公園の東端からは、ポーリン橋→フランス橋と歩道橋を歩いて、港の見える丘公園・フランス山エリアから展望台エリアへ。

港の見える丘公園の展望台エリアは、そのまま山手地区の一部を形成しています。

横浜山手観光の起点ともなる公園ですね。

起点・桜木町駅前、終点・港の見える丘公園という区間は、観光周遊バス”あかいくつ号”の設定と同じですが、かつて横浜市によって公式にプロモーションされていたという観光散策コース、”開港の道“で指定された区間です(あかいくつ号と”開港の道”、それぞれのルートは異なります)。

JR桜木町駅前をスタートし、”汽車道”と”プロムナード”を歩いて山下公園へ、山下公園を東西に横断したあと二本の歩道橋を経由して”丘公園”へという”開港の道”は、プロムナードや赤レンガ倉庫と同じく、2002年にオープンしました。

現在は、残念ながら開港の道そのものが観光コースとして特に推されているわけでもなく、かつ場所によっては目印の塗装が剥げてしまっているため、所々に”かつて開港の道として推された跡を散見することが出来る”程度の状態となっているのですが、それでもわかりやすい”お勧め散策コース”の一つではあり続けています。

JR桜木町駅前→港の見える丘公園でも、反対に”丘公園”→桜木町駅前でも、どちらのコースもお勧めです。

参考

かつての横浜、今の横浜 -廃線跡の街歩き-

新港ふ頭側入り口

象の鼻テラスの上から山下臨港線プロムナードの高架を遠目に見ると、廃線高架跡が今もほぼそのままの姿で残され、かつ遊歩道として再利用されているのがわかりますが、前記した”開港の道”の一部を形成している山下臨港線プロムナード沿いの風景を、以下にまとめました。

参考

日本大通り/象の鼻パーク付近

プロムナード上、日本大通り付近から。写真中央部に写っているレストハウスが象の鼻テラスです。

同じくプロムナード上から。真正面にあるのが象の鼻防波堤です。

写真中央に小さく映っているのは、大さん橋に向かうあかいくつ号です。

中央が日本大通り、右は神奈川県庁=キング、奥のつきあたりが横浜スタジアムです。

大さん橋付近にも、プロムナードからの降り口・大さん橋方面からの登り口があります。

横浜の開港記念日である6月2日には、開港記念イベントとして海上自衛隊の護衛艦・たかなみが、大さん橋にて一般公開されていました。

参考

山下公園側入り口

山下公園横にあるプロムナード入り口は、インド給水塔付近に位置しています。

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横浜臨港線と汽車道、”プロムナード”

日本初の鉄道敷設と、開港都市の貿易港

日本で初めて鉄道が開通したときの一方の駅である初代横浜駅(現・JR桜木町駅)から、新港ふ頭の旧横浜港よこはまみなと駅(現・赤レンガパーク内)へ。

現在の”汽車道”の前身、横浜臨港線(貨物線・旅客線)が上記の区間で新たに開通したのは、1870(明治3)年の”日本初の鉄道開通”から約40年後にあたる、1911(明治44)年のことです。

開港以来の”貿易港・横浜”の中心地、象の鼻エリアに”メリケン波止場”と呼ばれた鉄桟橋(現在の大さん橋のルーツにあたる船着き場です)が竣工したのは1892(明治25)年のことですが、その後を追うように開通した横浜臨港線(or臨港線)は、以降貨物線・旅客線として、長らく”港”と東海道線を結ぶ役割を果たすこととなりました。

古地図を見る分に、単に横浜港駅が東海道線と一本で結ばれていたというよりは、複数の倉庫傍に鉄道線が引き込まれる形で延伸されていたようなので、”かつては主に貨物輸送のため、東海道線と新港ふ頭が直接結ばれていた”という方が正確な捉え方になりそうです。

この一点をとっただけでもどこか今昔の感に堪えないところではありますが、戦前の臨港線は、アメリカ西海岸(サンフランシスコ、シアトル等)や西欧(イギリス・ロンドン)へ就航していた客船への接続電車=ボート・トレインとしても重宝されていました。

“開港都市”ならではの歴史も感じさせるところですね。

“貿易港”の変遷と、遊歩道

時は流れて戦後となると、(GHQによる大規模接収の影響を被る形で)一足遅れの高度成長期を迎えることとなった横浜にあって、横浜港での貿易・物流の在り方も変化します。

主なところは、貿易港としての中心部の移動ですね。

その変化に動線を合わせる形で、1965(昭和40)年、新港ふ頭-山下公園間に、新たに山下臨港線(山下貨物線)が開通しました。

この”新規の延伸部分”の一部(山下公園の手前まで)が、のちに現在の山下臨港線プロムナード(後述)の原型となる路線です。

ところで、”山下臨港線延伸”は、貿易港・横浜の中心が新港ふ頭から山下ふ頭へ移ったことに合わせる形のものではあったのですが、残念ながらという部分として、新港ふ頭から山下ふ頭へ移った”貿易港・横浜の中心”は、ほどなく新山下、本牧ふ頭、大黒ふ頭、さらには南本牧ふ頭へと移転します。

このことは当初より予期されていたということだったのか、山下臨港線については延伸前から反対の声もあったようではあるのですが、実際、”横浜臨港線”の全区間(旧来よりあった区間、新たに延伸された区間の全て)は、1986(昭和61)年に廃線となることが決定しました。

余談として、現在のみなとみらい地区中心部から”造船”関連の事業が撤退したのが1982(昭和57)年(同年、1891年に創業した”横浜船渠”以来の伝統を持つ三菱重工横浜製作所が、現在の金沢・本牧工場へ移転します)、”赤レンガ倉庫”が保税倉庫としての役割を終えるのがその3年後、1989(昭和64/平成元)年のことです。

詳細については別の機会にまとめる予定ですが、一言で言えば「バラバラになっている横浜の都心部を、その中間地点あたりで一体化させよう」というプランが、横浜再開発プランである”みなとみらい21計画”の核というか肝にあたる部分です。

貿易港としての推移もその後の都市計画も、いずれも”みなとみらい21計画”に沿って進められているという前提の下、周囲の状況に照らすのであれば、確かに”みなとみらい地区が空いた後の山下臨港線延伸”については、色々と読めていなかった感が無きにしも非ずなところにも見えてきます。

とはいえ。

山下臨港線が現役の貨物線として稼働した期間は21年、その後2002年に”山下臨港線プロムナード”が開通して以来、2023年でその21年の節目を迎えることになるということで、人々の記憶には”旧貨物線として”というよりは”海沿いの遊歩道として”と言った方がイメージしやすいであろう今日この頃、といった感じでもあるでしょう。

それもこれも結果オーライ、といったところに落ち着いているのが現状でもありそうです。

参考

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