【鎌倉街歩き/鎌倉三十三観音】アジサイの季節の明月院

鎌倉・湘南街歩き

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【鎌倉街歩き/鎌倉三十三観音】アジサイの季節の明月院

北鎌倉のアジサイ寺

明月院は、”明月院ブルー”を主体としたアジサイが有名です。

結構高いところにも咲いています。

明月院がアジサイ寺となったのは戦後半ば過ぎの昭和40年代、”戦後復興”の一端としてのことでした。今では全国に数多ある”アジサイ寺”のルーツとなったお寺こそが、明月院だったようです。


アジサイ以外の花も咲き、今は「花の寺」とも称されています。

 

明月院の入場状況

アジサイの季節の明月院、唯一の難点としては満員御礼当たり前という大盛況ぶりが挙げられますが、ピーク時、かつ天候に恵まれた日であれば、朝一を逃したら入場規制まではあっという間です。

同じく鎌倉でアジサイが名物となっている長谷寺共々、平日でも開門早々混雑が始まり、昼近くなると入場待ちの列が長くなって、入場規制がかかります。

なのでねらい目は朝一、開門早々の時間帯ですが、それでも境内に入ると、早速盛況となっている空気の中に身を置くことになります。

花想い地蔵さんも、さぞやご満悦でしょう。

 

明月院のルーツ

明月院のお寺としてのルーツは、鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼が1263年(弘長3年)ごろ建てた最明寺にあります。公式パンフによると、最明寺のルーツはこのさらに約100年ほど前、1160年(永暦元年)の”名月庵”創設にあるようですが、年代的に”名月庵”創建と同時に作られたとされる明月院やぐらも、明月院の名物です。

北条時頼との縁が深いお寺だということで、明月院内正面入り口傍には、北条時頼のお墓が置かれています。

北条時頼が建立し、時頼の没後ほどなく廃れた最明寺は、建立の数年後(1268年ごろ)、時頼の実子である第八代執権・北条時宗によって、禅興寺として再興されます。北条時宗といえば、13世紀末に元を迎え撃ち、撃退したことで有名な鎌倉幕府中期の武将ですが、戦前の日本では救国の英雄とされ、”鎌倉男児”は明治期には軍歌”元寇”でも謳われました。

創建年的にはその北条時宗の時代を前後することになりますが、最明寺や禅興寺時代以来の縁がある宗猷堂(開山堂)も、現在の明月院内、やぐら傍に置かれています。

宗猷堂(開山堂)自体は、禅興寺の最盛期(北条時宗による再興後)に、元となる建造物が確認されているようです。

“元寇を迎え撃った執権”北条時宗が再興したはずの元・最明寺=禅興寺だったのですが、残念なことにやがて再び衰退していきます。

その後1379年(鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の時代の約100年後)、”禅興寺・中興の祖”にあたる第15代関東管領・上杉憲方が、室町幕府の第二代鎌倉公方・足利氏満の命を受けて三たび禅興寺を再興させました。

このとき禅興寺の塔頭(たっちゅう。寺に寄り添って建てられた塔)として造られたのが、上杉憲方の法名を付した明月院でした。公式パンフには禅興寺再興に伴って『名月庵は明月院に改められ』とありますが、明月院の「再建」は、名月庵創設から約200年後、今現在から640年前のことです。

禅興寺自体は再興後も衰退と再興とを繰り返し、最終的に明治元年に廃寺となるのですが、禅興寺が廃寺となったあとにも明月院は残され、今に至ります。

余談ですが、明月院を興した第15代関東管領・上杉憲方の(生前墓と思われる)墓所は、明月院内ではなく、同じ鎌倉市内、江ノ電・極楽寺駅傍にあります。

 

本堂と枯山水

鎌倉時代の末期から室町時代にかけての明月院は、明月院の母体となった禅興寺が再興と衰退を繰り返していた時代にあたりますが、現在の明月院内でその時代を思わせる施設は、明月院・本堂と、枯山水の庭園です。

枯山水は、水を使わずに砂と石で山水を表現した庭で、室町時代、主に禅宗のお寺の庭園で発展したといわれています。

 

 

アクセス

開園情報

施設名 開園日・開園時間 拝観料
明月院 6月:8:30~17:00

6月以外:9:00~16:00

一般:500円

小中学生:300円

 

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