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【まとめ】00年代の函館(基坂沿いの風景、赤レンガ倉庫、函館山etc)

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【まとめ】00年代の函館(基坂沿いの風景、赤レンガ倉庫、函館山etc)

基坂・ペリー広場・元町公園

基坂(函館市公式観光情報 “基坂“)は、かつて北海道の行政の中心として栄えた坂道です。

坂名の由来は、明治維新後に坂下に里程元標(現在の道路元標)が置かれたことにあります。

中世の頃は松前藩の亀田番所が(函館市史・デジタル版 “亀田番所の設置“)、近世から近代にかけては箱館・函館奉行所が(函館奉行所公式サイト “函館奉行所の役割“)、それぞれこの地に置かれたようです。

【00年代の函館 その1】基坂・ペリー広場・元町公園

 

旧函館区公会堂(基坂先、元町公園隣)

明治40年(1907)8月、当時の函館区で発生した大火によって区民の集会場が失われた後、当時の函館の豪商・相馬哲平氏の助力などもあって完成したのが、大火後の函館区民の集会場兼商工会議所の事務所である、旧函館区公会堂(公式サイト)です。

【00年代の函館 その2】旧函館区公会堂(基坂先、元町公園隣)

 

【00年代の函館 その3】函館市旧イギリス領事館

基坂を挟んでペリー広場の反対側の位置にあるのが、函館市旧イギリス領事館(公式サイト)です。

旧イギリス領事館はペリー広場の真横に位置していますが、そのすぐ上には元町公園と旧函館区公会堂があって、ペリー広場、旧イギリス領事館、元町公園はいずれも基坂沿いに位置しています(参考:基坂・ペリー広場・元町公園)。

【00年代の函館 その3】函館市旧イギリス領事館

 

金森赤レンガ倉庫(西波止場傍)

金森赤レンガ倉庫(公式サイト)は、明治2年に開業した舶来雑貨等の販売店である、金森洋物店(函館市公式観光情報 “旧金森洋物店“)にその起源があるとされています。

“倉庫の起源がある”とは「金森洋物店の大繁盛が、結果として後の金森赤レンガ倉庫を生み出すこととなった」の意ですが、明治2年から函館の地に現在の赤レンガ倉庫があったわけではなく、まずはじめに金森洋物店の事業ありき、ついで貿易規模の拡大とその恩恵によって、後に(明治42年に)現在の金森赤レンガ倉庫が生み出されました。

【00年代の函館 その4】金森赤レンガ倉庫(西波止場傍)

 

函館山 -百万ドルの夜景 –

函館山(北海道公式観光サイト “函館山“)から望める夜景は、イタリアのナポリ(ポジリポの丘)や香港(ヴィクトリア・ピーク=太平山)の夜景と共に”世界三大夜景”の一つと称えられていて、函館の公式観光サイトや、北海道全般を対象とした観光サイトでも、夜景が推されています(参考:函館市公式観光情報 “函館山展望台“、Good Day北海道 “函館山からの夜景“)。

【00年代の函館 その5】函館山 -百万ドルの夜景 –

 

土方歳三と五稜郭、戊辰戦争

“土方歳三の最期の地”(函館市公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“)付近に置かれていた、雪の季節の土方歳三像です。かつて土方歳三の像は外に出されていたはずなのですが(というよりは、写真を見ればわかる通り、外部に置かれていたのですが)、現在は五稜郭タワー内に置かれているようです(参考:函館公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“、五稜郭タワー “土方歳三のブロンズ像“)。

【00年代の函館 その6】土方歳三と五稜郭、戊辰戦争

 

護国神社坂(函館山ロープウェイ山麓駅傍、護国神社前)

護国神社坂の起点に立つのは、江戸時代後期の豪商・高田屋嘉兵衛(函館市文化・スポーツ振興財団 “高田屋嘉兵衛“)の銅像です。

像が右手に持つのは松前奉行からの諭書(ゆしょ)、左手に持つのは正装に着替えた際に脱いだ衣装だということで、ゴローニン事件(後述)解決のため、ロシア海軍の軍人・ゴローニン引き取りにあたって高田屋嘉兵衛が箱館に入港した際の姿が像にされています。

【00年代の函館 その7】護国神社坂(函館山ロープウェイ山麓駅傍、護国神社前)

 

石川啄木と立待岬(函館山南東部、津軽海峡を見渡せる崖)

函館縁の人物の一人に、明治の世を生きた歌人である石川啄木がいます。

岩手県出身の石川啄木と函館の縁は、函館市中が大火に見舞われた不運などもあって、明治40年の5月から9月までとなってしまったという、わずか4か月ほどのものではありましたが(参考:函館市文化・スポーツ振興財団 “石川啄木“)、居住地跡を示す案内書きが市内中心部(護国神社坂傍)に残されていると同時に、一族の墓が津軽海峡に面した立待岬にあり、歌が刻まれた墓碑が置かれています。

【00年代の函館 その8】石川啄木と立待岬(函館山南東部、津軽海峡を見渡せる崖)

 

函館ハリストス正教会・函館聖ヨハネ教会・トラピスチヌ修道院

幕末の動乱の足跡同様、函館市内で目立つのがキリスト教関連の施設です。

“教会のある港町”は開港都市(函館の他横浜、長崎、神戸、新潟)にお馴染みの風景でもありますが、今回はかつて観光した3か所のキリスト教施設を紹介します(カトリック元町教会については、手持ちの写真が行方不明となってしまっているため、今回は割愛しました)。

【00年代の函館 その9】函館ハリストス正教会・函館聖ヨハネ教会・トラピスチヌ修道院

 

北海道第一歩の地碑

北海道第一歩の地碑(函館市公式観光情報 “北海道第一歩の地碑“)は、明治6年に函館と青森、安渡(大湊)間に青函連絡船の定期航路が就航して以来、北海道の入り口となってきた港(東浜桟橋。参考:函館市公式観光情報 “旧桟橋(東浜桟橋)“)が置かれていた地に、そのことを記念して置かれた碑です。

旧イギリス領事館などのある基坂の一つ東隣、日和坂の傍に位置しています。

【00年代の函館 その10】北海道第一歩の地碑

 

新島襄海外渡航の地

新島襄海外渡航の地(函館市公式観光情報 “新島襄海外渡航の地碑“)は、アメリカへの密航(当時は幕府によって海外渡航が禁じられていました)を企てた新島襄が、アメリカへ渡航するために上海行きのアメリカ船・ベルリン号に乗船した地です。

基坂の西隣、東坂の傍に位置しています。

【00年代の函館 その11】新島襄海外渡航の地

 

鯨族供養塔(函館市内、千歳坂沿い)

鯨族供養塔(函館市公式観光情報 “鯨族供養塔“)は、食用や油の採取を目的に捕えられた鯨(くじら)の供養のために作られた供養塔です。

基坂金森赤レンガ倉庫などがある一帯からは、やや離れたところに位置しています。

【00年代の函館 その12】鯨族供養塔(函館市内、千歳坂沿い)

 

天下の号外屋翁の墓他(函館市船見町)

“天下の号外屋翁”こと信濃助治さんのお墓は、函館市のほぼ西端、基坂金森赤レンガ倉庫などがある函館観光の中心部からもそう遠くないところ(函館市船見町)に位置しています。

信濃助治さんは明治27(1894)年6月、全身赤ずくめで函館を訪れ、約一か月後に開戦した日清戦争時にはその服装で北海新聞の号外を配布し、”赤服”と呼ばれる天下の号外屋として名を売ったようです。

【00年代の函館 その13】天下の号外屋翁の墓他(函館市船見町)

 

函館市青函連絡船記念館・摩周丸(JR函館駅、函館朝市傍)

摩周丸(函館市青函連絡船記念館摩周丸公式サイト)は、かつて青函連絡船在りし日に青森・函館間を結んでいた連絡船です。青函トンネルの開通に伴う廃止が決定した後、最終就航日(昭和63年3月13日)まで現役運航されると、函館の現在地に係留されることとなりました。

JR函館駅傍に位置していて、付近には函館朝市(公式サイト)がありますが、西波止場や金森赤レンガ倉庫公式サイト)などがある一帯からは多少距離があります。

【00年代の函館 その14】函館市青函連絡船記念館・摩周丸(JR函館駅、函館朝市傍)

 

箱館丸(日本初の洋式商用帆船)

箱館丸(函館市公式観光情報 “箱館丸“)は、幕末(安政4年=1857年)に建造された、日本初の洋式商用帆船です(重さ56トン、長さは30メートル)。

日米和親条約締結を契機として箱館の海防がいわれるようになった時勢下、高田屋嘉兵衛の下で働いていた船大工であり、箱館奉行とも近しい関係にあった続豊治さんによって作られました。

【00年代の函館 その15】箱館丸(日本初の洋式商用帆船)

 

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