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【横浜山手の公園】山手公園(山手本通り、カトリック山手教会傍)
about 山手公園
開国から11年後の1870年(明治3年)、妙香寺の敷地の一部を借地する形で誕生したのが、外国人側に”パブリックガーデン”、日本人側に”山手公園”と呼ばれた外国人専用公園です。
外国人居留民の出費によって作られた、日本初の洋式公園(=洋式の公共庭園)でした。
山手公園開園8年後の1878年(明治11年)には、居留外国人有志ではなく私設団体”レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ”(現・横浜インターナショナルテニスコミュニティ –公式サイト-)に借地権者が移ったことを契機として、公園にてテニスクラブが創設されると同時にテニスのクラブハウス、さらには日本初のテニスコートが作られ、山手公園は日本で初めてテニスがプレイされた公園となりました。
公園内には、国内テニス発祥の地であることを記念した”横浜山手テニス発祥記念館“が設置されています。
ほぼ同時期(1875年=明治8年)に作られた横浜公園との違いは、横浜公園が”彼我公園”と呼ばれ、日本人・外国人共用の公園とされたことに対して、山手公園は外国人居留民専用の公園として造られた点にあります。
そもそも彼我公園は開港場近くに作られた港崎-みよざき-遊郭跡地の公園であったため、従来より日本と海外の歩み寄り的な含みが持たされた地であったとも言えますが、一方で外国人居留地内に作られた山手公園に何が求められたのかといえば、まずは外国人居留民にとっての安全と、憩いの場であることでした。
ということで、山手公園の門戸が日本人にも開かれることになるまでには、明治3年の開園(1870年)から半世紀以上の時間を要する(1929年=昭和4年)ことになります。
近年では、2004年3月には国の名勝に指定され、2009年2月には横浜公園、根岸森林公園と共に”旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る”近代化産業遺産の認定(近代化産業遺産群・続33(ストーリー19、P66~68)を受けました。
参考:近代横浜の始まり -開港地での共存-、文化遺産オンライン “山手公園“、文化庁 “国指定文化財等データベース・山手公園“、横浜インターナショナルテニスコミュニティ公式サイト “YITC140年の歩み“
山手公園へ
公園坂から上った場合や山手本通りから下ってきた場合の、山手公園(公式サイト)入り口付近です。
テニス発祥記念館がこの通り沿いに用意されている他、通りをまっすぐ進んだ左側には旧山手68番館があります。
山手公園の入り口は、この入り口のほか、本牧通り側に通された桜道沿いにも用意されています。
入り口付近には”日本庭球発祥の地”が置かれていて、
すぐ傍にはテニスコートへの入り口がありますが、
新緑の季節のテニスコートの周囲には、一面の緑が生い茂ります。
公園中ほどにあるテニスコートの入り口付近には国指定名勝の碑が置かれていて、テニスコートの向こうには、かすかにテニス発祥記念館が見えています。
テニスコート横に広がる芝生の広場には、
東屋=ガゼボも用意されています。
テニスコートや旧山手68番館傍の芝生スペースは、気候がいい季節の晴天日などにはとても居心地のいい空間になってくれますが、
すぐ隣には、丘の斜面部分が山手公園の一部となっているエリアがあります。
本牧通りや桜道側から山手公園に入る場合、このエリアから公園中心部に向かいます。