【街歩きと日本史】室町時代の鎌倉と上杉氏

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【街歩きと日本史】室町時代の鎌倉と上杉氏

建長寺の塔頭寺院である長寿寺は、1336年、室町幕府を興した足利尊氏の実子である、初代鎌倉公方・足利基氏によって、足利尊氏の旧邸宅跡に創建されました。

北鎌倉駅下車後、ほどなくしてそこかしこに「北条氏」の跡が見えてくる北鎌倉界隈では珍しく、足利氏に由緒があるお寺です。

長寿寺を創建した足利基氏が務めた鎌倉公方とは、鎌倉幕府滅亡後、室町幕府が関東を支配するために置いた鎌倉府の長官ですが、「官職上は」補佐役としての関東管領を従えた、関東の将軍としての地位にあります。

それぞれ、鎌倉公方は足利尊氏の実子である基氏の子孫の世襲ポスト、関東管領はやはり尊氏の家系(尊氏の母・上杉清子との縁戚関係)である、山内上杉氏の世襲ポストです。

ちなみに”越後の虎”として勇名を馳せた戦国武将・越後国の上杉謙信は、初代関東管領を務めた上杉憲顕(のりあき)の嫡流にあたりますが、上杉憲顕(始祖)や上杉謙信(第十六代当主)の家系である山内上杉家の「山内」は、上杉家が拠点としていた鎌倉市山ノ内の「山内」に由来します。

例えば初代関東管領・上杉憲顕の実子であり、第五代関東管領を務めた上杉憲方(のりかた)は、その法名(明月院殿天樹道合)が表すように明月院を作った人物であり、お墓は江ノ電・極楽寺傍にあるという鎌倉ゆかりの人物だったというように、山内上杉家は越後の守護でありながらも、鎌倉ゆかりの家系でもあったんですね。

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京にある将軍の命を受けて関東を支配する鎌倉府は、鎌倉公方とその補佐役にあたる関東管領の主従関係によって「将軍代理」としての使命を果たす、というのが室町幕府の理想形だったはずなのですが、残念ながら鎌倉公方・足利氏と室町幕府+関東管領・上杉氏という内紛の延長において、鎌倉府は崩壊へ向かいます。

15世紀半ば(1455年)、度重なる室町幕府と鎌倉府の対立の後、享徳の乱(鎌倉公方足利氏 vs 室町幕府+関東管領上杉氏)を経ることによって鎌倉府が瓦解、足利氏の世襲する鎌倉公方は古河(こが)公方となって、新たに古河府(茨城県古河市)が設置されました。

ちなみに、この享徳の乱の時代(室町時代中期)は、幕府の置かれた京都も応仁の乱(1467年~1478年)勃発前夜であり、日本中で一揆が多発した時代でもありました。

くじ引きで就任が決定されたことから”くじ引き将軍”と揶揄される、室町幕府第六代将軍・足利義教(よしのり)の専制が忌避されたことから発生した嘉吉の変(1441年、将軍義教暗殺事件)後、将軍職の権威低下と共に有力守護大名間の争いが一層顕在化してくるようになったためですね。

結果的に嘉吉の変は享徳の乱や応仁の乱の遠因ともなり、続く室町時代後半の日本は、なるべくして戦国時代へ突入しました。

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