【秋の鎌倉御朱印巡り】”縁切り寺”東慶寺の秋と御朱印

御朱印巡り

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【秋の鎌倉御朱印巡り】”縁切り寺”東慶寺の秋と御朱印

東慶寺

東慶寺へ

東慶寺は元尼寺、現在は禅宗(臨済宗円覚寺派)のお寺です。

山門へと続く、短いながらもどこか俗世間と隔絶されたようなイメージを与えてくるように見えなくもない階段と、

厳ついわけではない、どこか優しいイメージを与えてくる山門のアンバランスさ。

双方のイメージの総和に、ぱっと見が伝える東慶寺一流の個性が宿っています。

 

about 東慶寺

JR横須賀線・北鎌倉駅傍にある東慶寺は、かつて縁切りを望む女性のための駆け込み寺=縁切寺であったという由緒を持っています。

結ばれた縁の全てが良縁であればそれに越したことはないわけですが、数ある良縁の中に一定数の悪縁が混じっていることもまた、世の常です。

かといってそれを女性側から切りたいなどという場合であっても、江戸時代までの、封建制度が社会の中枢を形作っていた時代には、「原則として」男性側からの意思表示がなければ公式に離縁が成立しませんでした。

そんな時代に用意された「例外」ルートにあたるのが、特定のお寺(縁切寺)に女性が駆け込み、かつ三年間寺社での修行を積むという方法です。

そのことによって最終的に女性側からの意思で縁切りが実現したという、そんなお寺として機能していたのが東慶寺だったんですね。

その昔は「出雲にて結び鎌倉にてほどき」などと(縁にまつわる願掛けと実情が)川柳で謳われたこともあったようですが、この場合、「出雲」とは「縁結びの神様」である大国主大神(おおくにぬしのかみ)が祀られた出雲大社、「鎌倉にて」の鎌倉が東慶寺にあたります。

ちなみに東慶寺は、円覚寺を創建した鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の妻である覚山尼(かくざんに)によって開山され、鎌倉幕府第九代執権・北条貞時によって開基(=創建)されました(開山・開基の違いについては、”円覚寺の秋と御朱印“へ)。

“覚山尼”という法名は、円覚寺を開山した無学祖元が付けたものだといわれています。

 

用堂尼と天秀尼

他、東慶寺の歴史上大きな出来事としては、後に建武の新政を興すことになる第96代天皇・後醍醐天皇の皇女・用堂尼(ようどうに)が、第5世の住職として東慶寺に入寺したことが挙げられます。

後醍醐天皇皇女・用堂尼の墓所は、現在も東慶寺内にありますが、

以後の東慶寺は「松ヶ岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せる」(東慶寺の由緒書きより)ようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられます。

この他、江戸時代には豊臣秀頼の息女(=娘)が東慶寺の20世住職・天秀尼(てんしゅうに)となったことによって、さらに寺格が上がりました。

 

東慶寺と天下人

大坂夏の陣(慶長20年=1615年)では、豊臣秀頼(太閤・秀吉の実子であり、天秀尼の父)、淀殿(太閤・秀吉の側室であり、天秀尼の父である豊臣秀頼の母)が共に自害し、戦国大名・豊臣家は滅亡します。

豊臣家の滅亡後、命を救われた秀頼の息女(=娘。俗名不詳)は、はじめ尼僧として東慶寺に預けられ、やがて20世住職の天秀尼(てんしゅうに)となりました。

これは天秀尼(秀頼の側室の子)が、徳川家と義理の縁戚関係を持っていたことによる助命措置です。

天秀尼の義理の母である豊臣秀頼の正室・千姫は、徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠の娘であり、秀忠は徳川家の始祖・家康の実子だったという縁が、天秀尼の命を救うことになりました。

結果、豊臣家の直系・天秀尼には鎌倉に新天地が用意されるのですが、そもそも豊臣家と鎌倉の地に最初の縁ができたのは、天秀尼の祖父にあたる豊臣秀吉の小田原攻めの後のことです。

秀吉の小田原攻めは、鎌倉で代々執権を務めた北条氏相手の戦いではなく、戦国武将・北条早雲を祖とする後北条氏が滅亡した戦いですが、小田原征伐後の秀吉は、かつての鎌倉幕府の政庁を尋ねる目的で鎌倉入りしました。

天下統一を目前に控えた秀吉が小田原征伐後に縁を持った鎌倉の地に、全てが終わった後の孫娘が尼僧となり寺を預かる運命が用意されていたと見るなら、豊臣家にとっては因果なものだとも取れるでしょう。

ただし前記したように、東慶寺の寺格自体は、このことによってさらにあがりました。

北条時宗の妻・覚山尼によって東慶寺が開山されたのが1285年、その後1871年の寺社領上知令(いわゆる廃仏毀釈)をきっかけとして、やがて1902年(明治35年)に尼寺としての役割を終えるまで、約600年間縁切寺として機能してきたようです(参考:東慶寺公式サイト東慶寺のこと“)。

 

東慶寺・境内

現在の”元・尼寺”東慶寺は、一年を通じて様々な花が楽しめる、紅葉の季節である秋は紅葉が楽しめるお寺となっています。

東慶寺、山門の内側から。

かつての「縁切寺」時代には、このこじんまりとした”男子禁制”の境内に人の数だけの「救い」があり、お寺の内外を境界線とした数々の人間ドラマがあったのですね。

山門から伸びた参道上には、金仏が置かれていますが、

そのすぐ右手にある、本堂前の門の上では葉が色づいています。

なお、東慶寺の旧仏殿は、1907年=明治40年に横浜・三渓園に移築されています

 

東慶寺・御朱印

 

アクセス

 

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