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【群馬/新潟青春18きっぷ旅:初日その8】碓氷峠鉄道文化むらへ
JR信越本線・横川駅傍の”鉄道博物館”へ
“文化むら”入り口付近と廃線跡 -旧碓氷線history-
旧碓氷線history
碓氷峠鉄道文化むら(公式サイト)は、JR信越本線・横川駅傍に作られた旧碓氷線(信越本線横川駅・軽井沢駅間)の資料館であり、鉄道関連の博物館です。旧碓氷線(旧信越本線横川駅・軽井沢駅間)、横川運転区(運転区は、鉄道車両の基地のような施設です)の跡地が再利用される形で営業されています。
旧碓氷線は、旧中山道時代にも街道屈指の難所といわれていた碓氷峠超え(横川関・軽井沢宿間)のルートに通された鉄道です。同区間は、そもそも鉄道を営業運転させること自体が至難の業であるとされていた区間にあたるのですが、明治26年=1893年、技術の進歩と”峠超え”にかける熱意が横川・軽井沢間の鉄道開通を現実のものとしました。
幾多の尊い犠牲の上に開通した碓氷線は、以降、明治・大正・昭和・平成と四世代に渡って、難所を結ぶ貴重な交通手段であり続けます。
その後も昭和の後半には複線化が実現し、高性能電気機関車が導入されるなど、さらに快適な路線へと進化を遂げた碓氷線ではあったのですが、最終的には平成期の北陸新幹線開通によって営業運転は限界に達したと判断され、残念ながら平成9年=1997年に、104年に及ぶ歴史的役割を終えることとなりました。
翌平成10年=1998年以降、旧横川運転区は鉄道文化むらに、廃線跡は”アプトの道“にそれぞれ”転生”し、今日へと続く第二の人生を歩んでいます。
鉄道文化むらへの廃線跡
そのような”かつて”を彷彿とさせる足跡の一つが、
横川駅付近から鉄道文化むらに向かって伸びた、旧碓氷線の廃線跡です。
“遺された廃線跡”は施設に入る前にして期待感を高めてくれる小粋な演出の一つなのですが、鉄道文化むらではその期待に違わぬ”中身”が用意されています。
小杜神社と記念碑、”刻苦七十年”
施設に入ってすぐのところ左手には、旧横川運転区の前身である国鉄横川機関区時代の職員さんのお手製であるという小杜神社、そのすぐ隣りには、旧碓氷線開通以来70年に及んだ”アプト式運転”終了にあたって設置されたという歯車型の記念碑”刻苦七十年”が設置されています。
共に旧施設時代から引き継がれてきた遺産であり、入ってすぐのところで”歴史の継承”が可視化されているのですが
そのすぐ横には、”鉄道文化むら”オープンにあたっての記念碑も設置されています。
ちなみに”アプト式”とは、急こう配の峠道を運転するために線路の真ん中に歯車を設置するという、特殊な技術を用いた鉄道敷設方式です。
線路中央に設置された歯車と、車両側(両車輪の間部分)に作られた歯車のかみ合わせによって、加速減速をさらに強力なものとすることが狙われているのですが、運行にケーブルを利用するケーブルカーと、通常の鉄道の間に位置するような方式ですね。
トロッコ列車と新幹線軌道確認車
施設内に入ってすぐのところには、トロッコ列車(公式サイト)の乗車駅があります。
トロッコ列車は、旧廃線跡の遊歩道・アプトの道に沿って路線が敷設され、旧丸山変電所(安中市公式サイト)傍に作られたまるやま駅経由で、碓氷峠の森公園(峠の湯公式サイト)傍に作られたとうげのゆ駅との間を結ぶ路線です。
アプトの道をお手軽に体感したいと思う時には必須の交通手段で、3~11月の土日祝日の他、お盆期間には毎日、それぞれ上下5便ずつが運行されています。
運賃は中学生以上片道700円(400円)、往復1200円(600円)です。
トロッコ列車乗り場のすぐ傍には、新幹線の線路の状態(異常の有無)を確認するための電車である、新幹線軌道確認車が展示されています。平成7年に製造されたもので、現役引退後にここに展示されることになったという”自動運転車”です。
シンボル広場、鉄道資料館
施設内を周遊する機関車(公式サイト)の高架をくぐると、中央付近に作られているのはシンボル広場と呼ばれるエリアです。レンガ敷きとなっている地面に複数の廃線跡が引き込まれているのが分かりますが、この付近からが”横川駅から、旧横川運転区へ”という一帯に当たります。
線路の数が増えたエリアに隣接している、どこか飾りっ気のない建物は”旧詰所”です。飾りっ気がない分かつての雰囲気を色濃く残しているという”ならでは”な建物でもあるのですが、今は旧碓氷線関連の展示が行われている鉄道資料館となっています。