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【横浜街歩き/元町中華街エリア】三渓園の秋

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【横浜街歩き/元町中華街エリア】三渓園の秋

今年もあと一か月と10日ばかり。気がつけば秋もそろそろ終わりなんですねということで、晩秋の三渓園まで。

横浜中心部で季節を感じたいなんて時に外せないスポットの一つである三渓園は、明治39年(1906年)より一般公開が続いている、横浜を代表する日本庭園です。

元々現在の三渓園にあたる地を私有していたのは、生糸貿易で財を成した横浜の貿易商・原善三郎さんでした。

原家は埼玉の豪農だった家系ですが、開国と共に横浜に出てきた善三郎さんの生糸事業が大当たりすると、以降原家は横浜にて地盤を固めていきます

最終的に善三郎さんは衆議院議員、さらには貴族院議員となりました。

明治35年(1901年)、その善三郎さんの逝去がきっかけとなる形で、横浜での原家の二代目当主、善三郎さんの義理の孫にあたる富太郎さん主導の造園整備がはじまります。

明治39年には園内の一部地区(現在の外苑地区)が、24時間無料公開の対象となりました。

このことは当時の新聞などでもかなり話題になったようですが、以降の本牧地区は、ほぼ同時期(明治44年=1911年)に開通した市電(横浜電気鉄道・本牧線)の影響もあって、三渓園の知名度の高まりと共に歩みを進めます。

三渓園が出来、さらに市電が開通したことによって「本牧」の地名はより広く知れ渡ることとなって、付近一帯の開発が進んでいったという関係ですね。

第二次世界大戦後の昭和28年には、三渓園の管理が原家から三渓園保勝会へと移され、同33年に内苑地区(原家所有時には非公開だった部分)の一般公開が始まりました。

 

内苑地区

入ってすぐに望める大池に浮かぶ木造の船、園内は正面に広く視界が開け、ほぼ360度の緑が目に飛び込んできます。

入って早速別世界が広がる三渓園内ですが、

遊歩道沿いには、かつての姿を来園者に伝えてくれる案内板も出ています。

 

鶴翔閣

三渓園内は、入り口(正門)入ってすぐのところから道が二手に分かれているのですが、うち正面に伸びた一本が恐らくは順路にあたる道で、まずはじめにかつて原家の住居兼応接施設だった鶴翔(かくしょう)閣方面に向かいます。

ちなみに、入り口付近につながるもう一つの道ですが、「すぐのところにある」とはいえ、正門からだとほぼわかりません。順路的にはぐるっと回って帰りに歩いてくる道で、初回訪問時にここから回る人はまずいないだろうといった通され方をしています。

ここで、鶴翔閣と原富太郎さんについて、少々。

三渓・原富太郎さんが、若く才能のある(しかしお金がない)画家のパトロンとなっていたことから、鶴翔閣は日本美術院(現存する、日本を代表する日本画の美術団体)の画家達がよく出入りする、創作のヒントを得るための場となっていきます。

縁の人名を尋ねると、横山大観(画家)、下村観山(画家)、岡倉天心(史家、評論家。東京芸大美術学科の前身である東京美術学校創設に尽力した、日本美術院創設者)といった近代日本美術界のビッグネームにつながっています。

他、富太郎さんの長男の旧制中学時代の同級生だった縁から、作家になって間もない芥川龍之介が三渓園・富太郎さんを訪れ、感銘を受けたこともあったようです。

原富太郎さんや三渓園に関連する書籍や文書を見てみると、特に富太郎さんについては縁が縁を呼ぶ形で、文化人や政財界人との間の様々なエピソードが出てくるのですが、私財を惜しみなく社会貢献につなげていくふるまいが可能とした人脈形成なのでしょう。

三渓園の沿革自体や、今に遺された三渓園の雰囲気などからも、なんとなくそのあたりを察することが出来るような気分になったりします。

鶴翔閣前には睡蓮池という、睡蓮がたくさん浮かぶ池があり、

通りを挟んでさらに大池があります。

大池沿いはそのまま遊歩道になっていて、鶴翔閣への道沿いには松が多く植えられています。鶴翔閣から見ると池の向こうには橋(観心橋)が休憩所(涵花亭)へとかかっているのが見えます。⠀

 

三渓記念館周辺

園内中央部、内苑地区入り口付近に設けられた三渓記念館周辺の風景。記念館ではお土産品が購入できるほか、抹茶を楽しむことが出来ます。

18世紀初頭(宝永年間)に京都に造営され、大正期の三渓園に移築された御門(横浜市指定有形文化財)は三渓記念館すぐとなりに置かれ、園内の雰囲気づくりに一役も二役も買っています。

 

臨春閣/亭榭

三渓園内、内苑地区の臨春閣と亭榭(ていしゃ)です。臨春閣は国の重要文化財に指定されています。

内苑地区に移築された建造物は、特に中世末期から近世初期にかけてのものが目立ちますが、臨春閣は紀州徳川家初代藩主の頼宣が17世紀半ば(慶安2年=1649年)に和歌山に建てた別荘建築で、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗が幼少期を過ごしたのではないかとみられています。

築350年を超えていますが、原富太郎さん存命中は来客の接待等に使われていたようで、今見ても、ぱっと見で判断するなら十分人が住める保存状態になっています。

小さい池の向こうに臨春閣を望める位置にかけられた橋である亭榭は、そのすぐ傍にある重要文化財・旧天瑞寺寿塔覆堂に合わせたものだと思われます。

寿塔(じゅとう)とは生前墓、覆堂(おおいどう)とはそれを収めるための建造物ですが、覆堂は豊臣秀吉が母である大政所の長寿を祝って桃山時代(16世紀末)に建築したものです。

亭「榭」とは見晴らし台のことを意味しますが、モデルとなったのは、秀吉の奥さんである北政所・ねねが秀吉を弔うために建てた京都・高台寺の観月台だといわれています。

秀吉ゆかりの寿塔覆堂傍にかける橋だから、ということなのでしょう。

大政所を思う秀吉の気持ちの体現と、秀吉を思う正室・ねねの気持ちの体現という、それだけで家内安全、あるいは恋愛系パワースポット(秀吉とねねは、当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれた夫婦でした)の出来上がりみたいな一帯です。

ちなみに前記の臨春閣ですが、元々三渓・原富太郎さんは、秀吉自身によって破壊しつくされたはずの聚楽第(関白時代の秀吉が作った京都の拠点)の一部だと信じて買い取ったようです。

仮に臨春閣が「幻の」聚楽第であったとするなら、池の周りで表現されているのは16世紀末、桃山時代の風景だという、とても統一感の取れた一帯になります。

北政所の観月台建造を後援したはずの家康は、秀吉の没後態度を豹変させ、終には豊臣家を滅亡に追い込んでしまう、そもそも秀吉が聚楽第を破壊したのは後継を巡る自身の問題を原因に持つなど、当時一流のエグさを持った人間模様もあるものの、建造物には彼らの耽美観の粋も集められ、それが遺すに足るものだと評価されている面も持ちます。

生糸の貿易商・実業家として文明開化の先端に立ち、進取の気風の中に生きたはずの原三渓さんがここに表現したかったものがなんとなく見えてくるような、そんな気持ちになったりもしますね。

臨春閣は、亭榭を渡って裏手に回ることが出来ます。

 

身代わり灯篭

臨春閣の裏手に回ると置かれているのが、千利休の代わりに切られたといういわれのある「身代わり灯篭」です。⠀

 

月華殿/金毛窟/天授院

臨春閣横からはじまる階段を上って、月華殿(げっかでん)、金毛窟(きんもうくつ)、天授院(てんじゅいん)が並んだエリアへ。

階段途中から、臨春閣の向こうには園内のシンボルである三重塔が見えます。

それぞれ、月華殿は17世紀初頭の京都・伏見城にあった大名来城の際の控え所(1603年築、重要文化財)、天授院は鎌倉・建長寺近くに置かれていた地蔵堂の建物(1651年築、重要文化財)です。

かつて月華殿が置かれていたとされる伏見城も、やはり桃山時代に秀吉によって築城された秀吉ゆかりの城で、秀吉が聚楽第を甥っ子に譲った後に、隠居先として造られた屋敷を原型に持ちます。

ちなみに、聚楽第を譲り受けた甥っ子は秀吉の姉の子である豊臣秀次です。

元々秀次は秀吉の後継争い筆頭にいながら、秀吉の側室の子(今でいう非嫡出子)である秀頼生誕によって疎まれるようになり、最期は叔父である秀吉によって切腹を命じられてしまうという、中々の悲劇の人だったりします。秀吉は秀次の切腹後、かつて秀次に与えた聚楽第を破壊するのですが、それは要するに「元々後継として秀次を考えていたこと」を消したかったが故の行為でした。

秀吉としては秀頼が生まれたのであれば大阪城は秀頼に与える、だったら伏見の屋敷は城にしなければならないということで、屋敷は城へと再建され、伏見「城」になりました。

そんな伏見城ですが、秀吉の没後一時的に家康の居城となった後、政治の中心は家康と共に大阪城へ移り、さらに関ケ原の戦い後は幕府の開かれた江戸へと移ります。

以降、京における幕府の拠点が二条城におかれたことから、徳川幕府開府後ほどなく伏見城は廃城とされました(1619年)。

信長・秀吉の時代である織豊政権時代=安土桃山時代に花開いた文化が「桃山文化」と呼ばれている所以は、伏見城の廃城後、跡地に桃の木が植えられ、一帯が桃山と呼ばれるようになったことに依っていますが、当時の文化が強く意識された内苑地区の造り、文明開化と共に近代化が進んでいった明治の世の感性にどこかぴったりくるものがあるように感じます。

月華殿・天授院という二つの重要文化財の間、月華殿の隣には、原三渓が構想した茶室である金毛窟(大正7年=1918年築)が置かれています。⠀

 

聴秋閣

三渓園に正門から入った場合、内苑地区でも(天授院等と並んで)一番奥に位置しているのが、聴秋閣と遊歩道(遊歩道は期間限定公開)です。

月華殿や金毛窟からの下り坂の先に位置していますが、聴秋閣は、かつて京都の二条城内にあったといわれる、徳川幕府三代将軍・家光とその乳母である春日局縁の建造物です。

ちなみに京都の二条城は、江戸城と並んで江戸時代を象徴するお城でした。

かつて織田信長が築いた二条城(旧・二条城跡地は京都御苑に隣接する場所にあります)、豊臣秀吉が築いた聚楽第は、共に京都御苑の周辺に位置しています。

これは単なる偶然ではなく、戦国武将にとっての京での築城は、自身が天下人になったことの証であったことによります。

江戸幕府の開祖となった家康にしても元は一戦国武将であり、自身もその前例を踏襲した、その証が二条城の築城だったんですね。

そんな沿革があったことから、初期においては、江戸幕府初代将軍の家康が征夷大将軍に任命されたことを祝う祝賀の儀が開かれた城であり、三代将軍・家光の時代までは、同様に祝賀の儀が開かれた城だったのが二条城でした。

江戸幕府の幕政にとっても「武断政治から文治政治へ」という大きな転換点となった四代将軍家綱の時代以降、一旦この慣習は途絶えてしまうのですが、時は巡って幕末になると、14代将軍家茂が家光以来となる229年ぶりの将軍の二条城入城を果たします。

さらに、続く最後の将軍である15代将軍慶喜は二条城内で征夷大将軍に就任し、かつ二条城内において大政奉還(政権を朝廷に返上する宣言)を行っています。

14代将軍家茂・15代将軍慶喜は共に、激動の時代を迎えるにあたって慣習面で先祖がえりをした形になりますが、このことによって、江戸時代の始まり(始めの三代)と終わり(最後の二代)に、共に二条城が絡んでくることとなりました。

江戸幕府開府間もない時期って、紫衣事件(朝廷が紫の衣を高僧に与える権限を幕府が認めなかったことによって起こった、朝廷・幕府間の確執)を巡って一時的に朝廷と幕府の関係が悪化した時代でもあったのですが、その紫衣事件の一方の当事者であった後水尾天皇を二条城に招くために造られた、「行幸御殿」の一部が聴秋閣です。

「行幸御殿」増築を含む二条城の改築は、三代将軍の家光主導で行われました。

“春日局縁”とは、後水尾天皇の行幸後、行幸御殿の一部であった今の聴秋閣が春日局に下賜され、その後巡り巡って三渓園に移築されることになったという部分を指しています。⠀

 

春草廬

元々は月華殿についていたといわれる、期間限定公開の春草廬(しゅんそうろ)。内苑地区の奥にあって、周辺の緑に溶け込むような風情を醸す、小さな茶室です。

三渓園内に再現された歴史に思いを馳せつつ、聴秋閣、亭榭、旧天瑞寺寿塔覆堂、ススキ、紅葉、秋の空等々。三渓園内・内苑地区の晩秋の風景です。

 

外苑地区

三重塔

三渓園のシンボルである三重塔(1457年建築、1914年に三渓園へ移築)へは、三渓記念館傍に道があります。

階段の先に二手に分かれた道の左側へ進むと三重塔方面です。

右側に進むと展望台である松風閣へつながる道ですが、

現在松風閣は老朽化により閉鎖中で、三重塔の見学のみ可能です。⠀

松風閣からは、臨海部の工業地帯の様子を展望することが出来ます(2017年撮影)。

三重塔手前には「出世観音」という、なにやらおめでたい名前の観音様も置いてあります。

三重塔へ。

付近からの景観も抜群です。

 

初音茶屋

順路を回って三重塔付近を通過すると、お茶屋さんが続くエリアに入ります。

以降に「三渓園らしい」風景と共に続くのは、かつて無料のお茶がふるまわれていたという初音茶屋など、史跡として遺された部分にもそれが反映されている形の一帯です。

 

旧東慶寺仏殿/矢箆原家住宅

初音茶屋から橋を渡って奥に進むと

東慶寺仏殿と矢箆原家住宅があります。

北鎌倉にあるかつての”縁切寺”、東慶寺の仏殿は、1907年=明治40年に三渓園に移築されました。

その隣にある旧矢箆原(やのはら)家住宅は、合掌造りの住宅です。

ダム建設によって一帯の水没が決まった昭和の半ば、三渓園へと移築されました。施設内の重要文化財の中では唯一内部見学が可能で、ボランティアスタッフの方が案内してくれます。

一階には今でも薪がくべられた囲炉裏(矢箆原家の居住空間)や水場、夫妻の寝室や応接間のような私的な空間と、来客用の書院造で作られた部屋等が大体半々で作られています。

割と急な階段を上って進む二階(屋根裏)は、かつて養蚕のために使われていた空間で、現在は矢箆原家で使われていた農具の他、養蚕のための道具が展示されています。⠀

正門方面へ

ぐるっと一周周った後、お茶屋さんである待春軒を過ぎると、

すぐ隣には燈明寺本堂

大池にかかる観心橋を過ぎると、

ほどなく、スタート地点である正門付近に到着します。

 

アクセス・開園情報

開園時間:9:00~17:00(最終入園16:30)

休園日:年末(12/29~12/31)

入園料:高校生以上700円、中学生/小学生200円、横浜市内在住65歳以上200円