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【横浜観光FAQ/グルメ・さんぽ】長安道(堀川・西の橋付近から中華街内・開港道へ)

横浜中華街

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【横浜観光FAQ/グルメ・さんぽ】長安道(堀川・西の橋付近から中華街内・開港道へ)

長安道

関帝廟通りまで

西の橋傍から長安道へ

長安道ちょうあんどうは、横浜中華街公式サイト)のほぼ中央部分、やや西側を南北に貫くように通された通りです。堀川上に架けられた西の橋の傍、元町商店街公式サイト)の端に位置する元町交差点からほど近いところに、入り口の一端が位置しています。

長安道と同じ方向に通された通りには、一つ東隣に中山路、さらにもう一つ東隣に市場通りがありますが、長安道他二本の通りは、横浜中華街を代表する大きな通りである中華街大通り関帝廟通りと直行する形で伸びていることが特徴です。

通りに入ってすぐのところには、銭湯のえびす温泉(公式サイト。いわゆる”温泉”ではないようです)があって、

さらに進むとコインパーキングエリアが続きます。

数台ほど停められるようです。

さらに進むとボードゲームのお店・リゴレ(公式サイト公式X)や、

ペットショップやライブハウスなども入居しているというマンション”レイトンハウス”や、その向かいには中土木事務所があります。

いわゆる中華街らしい雰囲気ではなく、中区内の一画といった雰囲気の街並みが続きますが、厳密には、ここまでの道は”長安道へと繋がる道”となっています。

“横浜の下水道のはじまり”碑

中土木事務所やレイトンハウスがある交差点付近には、”横浜の下水道の始まり”碑が置かれています。

日本の下水道の歴史は、明治3年(1870年)、当時の山下居留地全域に近代的下水道が設置されたことで幕を開けますが、その後明治14年(1881年)、山下居留地の下水管は、断面が卵型をしていることから”卵型管”と呼ばれたレンガ造りの下水管に、新たに置き換えられることとなりました。

この卵型管は現在でも南門シルクロード地下で使われているようですが、

昭和56年2月、その卵型管が山下町内(山下町37番地先、現在ヘボン博士邸跡の碑が置かれている付近です)で発掘されましたということで、石碑の傍に並べて設置されています。

一見”近代下水道のはじまり”とは何のかかわりも無さそうなこの場所に碑と卵型管が置かれているのは、ここに区内の下水道等を管理している中土木事務所(公式サイト)が置かれているという縁によっています。

余談として、同じく近代下水道関連の碑としては、”はじまり”の後「横浜市の下水管の総延長が、平成7年11月に1万kmに達したこと」を記念する碑が、山手地区の桜道沿い(山手公園入り口付近)に設置されています(参考:近代下水道記念碑と”ブラフ溝”)。

五差路と長安道、中華街の区画

“下水道碑”傍の交差点は、通常の交差点ではなく、変則的な五差路となっています。

これは、中華街中心部(=東部)の地形が周辺に対して斜め(通常の区画の対角線のような角度)に傾くように区画整理されていることによっていますが、

長安道を中心とした中華街の地形をざっくり描くと、横浜公園や中華街西部(及び中華街中心部以外の山下町、日本大通など)は、堀川に対しては斜めに作られていますが、海岸線に対しては並行に作られています。

このことに対して、堀川を基準として作られているように見えなくもない中華街の中心部”のみ”が、山下町一般や海岸線に対して、斜めになっているんですね。

“斜め”の理由については、風水を利用して街づくりを進めた結果こうなった、元々の地形を尊重した結果こうなったなど諸説あるようですが、このような地形の中にあって、長安道は、中華街特有の区画で整理されているエリア(中華街中心部)と”それ以外”の、丁度境目に当たるところに通されていることがわかります。

中華街の中心部については、東端に通された南門シルクロード、および北端に通された開港道と、西部との境目に通された長安道、さらには堀川で囲まれた感じの一帯だと捉えることも出来ますが、そのような(”斜め”と”普通”の境目に通されているという)理由から、長安道上の交差点はもれなく五差路か三叉路となっているんですね。

直進方向(開港道方向)の道、

西の橋方向の道、

JR根岸線石川町駅方向に伸びた道、

横浜公園横浜スタジアム方向に伸びた道、

南門シルクロードに向かって伸びた太平道です。

横浜中華街中心部の西側については、長安道を一本の柱として捉えておくと、迷走回避の一助となります。

四本の道と共に中心部周りの長方形を抑えたら(参考:中華街の地形を手っ取り早く抑えるためのポイント)、次は長安道をしっかり抑えておくことによって、さらに中華街が歩きやすくなります。

関帝廟通りへ

西の橋付近から長安道に入った場合、最初の五差路を超えたあたりから、ボチボチ”中華街らしさ”が見え始めますが、

右手に関帝廟通りの地久門が見えてくると、ここから先はほぼ”見知った中華街”となっていき、次の交差点で右手に中華街大通りの善隣門がみえたところで賑わいがピークに達します。

再び五差路へ -地久門前交差点-

前記したように、横浜中華街は中心部の区画の向きが、周りの区画の向きとは異なっています。

周りに対して斜めの区画を持つ中心部と、周りと同じ区画を持つ西部の”境目”で、中心部の区画に沿うように通されているのが長安道だということで、長安道沿いの交差点では五差路の交差点が普通に出てくることになるんですね。

地久門前の五差路は、1.まっすぐ伸びた長安道、2.その隣で斜め左前方向に伸びた福建路、3.福建路のさらに左、地久門を背にして斜め左方向に伸びた(西門通りの一本南側に通された)道、4.背後に伸びている長安道、5.地久門の奥に伸びた関帝廟通り、という形です。

右側に伸びた道が中華街大通り・善隣門方向に向かう長安道、その隣(左側)に伸びているのが福建路ですが、

福建路の向こうには横浜スタジアムの外野席の一部が視界に入って来ます。

西門通り等に並行して通された通りは、JR石川町駅方面に向かって伸びています。特に通りの名前は付けられていないようです。

長安道の進行方向には、ほどなく横浜中華街随一の賑わいを見せるエリアへと進んでいくのですが、この付近からだと未だそれはハッキリとは確認できません。

関帝廟通りから中華街大通りへ

横浜中華学院前

関帝廟通り沿いに作られている学校は、台湾=中華民国系の外国人学校である横浜中華学院です。

最近校舎等が改修されたようで、開放感がある、かつ魅力的な一帯へと変化しました。

“諸子百苑”と題されたイラストが、長安道と関帝廟通り沿い、横浜中華学院の敷地外に作られた壁面を彩っていますが、今の流行の画風を意識して描かれたイラストと共に、孔子や墨子といった諸子百家の有名な思想もオシャレな書体で書かれています。

このほか、長安道沿いには新たに駐車場も作られました。

かつて横浜中華学院の敷地を囲むようにして作られていた壁(あるいは校舎)がなくなったことによって、その奥にある関帝廟を、長安道沿いから望むことが出来るようになりました。

このことが視覚的にもたらす効果にしても、かなりのものがありそうです。

善隣門付近

横浜中華学院・地久門傍からさらに先へ進むと、さらに”中華街ぽい”感じの強い一帯へ。

テレビや雑誌でお店が紹介された様子がまとめられている一画を持つ、中華街ではお馴染みという感じのお店も登場します(写真は、上海料理の”馬さんの店 龍仙“です。公式サイト)。

ちなみに右側で一番大きく取り上げられているのは、今夏(23年夏)に次男の勝児選手(が所属する慶應義塾高校野球部)が夏の甲子園で全国優勝した(観戦する様子がしばしばメディアに取り上げられた)ことから、ある意味”時の人”(大会史上でも稀な、親子で甲子園優勝達成)となったという、元西武ライオンズ等所属のプロ野球選手・清原和博さんです。

時勢を意識して情報がアップデートされているあたりも、”らしさ”のうちですね。

ほか、長安道の特徴としては、観光要素と地域住民の生活感が織り交ざったような通りとなっている点を挙げることが出来ますが、通り沿いにはスーパーのような食材店も用意されています。

写真右側のお店は”耀盛號ようせいごう“(公式サイト中華街公式サイト)です。

かわいい見た目が人気の”ハリネズミまん”はじめ、食べ歩きにも対応したお店ですが、中華の調味料や食材も幅広く扱っています。

NTTと中華街

このほか、中華街内でボチボチ見かけるものとしては、NTTの変わったマンホールを挙げることが出来ます。

日本国内では、1890年(明治23年)に横浜・東京間で初めて電話が開通していますが、そのちょうど100年後、1990年(平成2年)に100周年を記念して作られたというマンホールですね。横浜中華街傍にはNTT東日本やその関連会社が入居しているビルが3棟ほどあるので、あるいはそのつながりからのものかもしれません(同じ中華街内には、”かつて”を思わせるレトロな電話ボックスも設置されています)。

“電話開通100周年記念”ということでは、山手本通りの元町公園前に、東京・京橋に初めて設置された電話ボックス(1900年=明治33年)と同型のものが置かれています(参考:自働電話・山手234番館前付近へ)。

こと”電話との距離感”ということでは、今では携帯電話の持ち歩きが広く普及した状態となっていますが、当然のこととして、日本国内に初めて電話が開通したころの事情としては、かなりお高い通話料金が必要だったようです(参考:当時の電話事情)。

善隣門と五差路

関帝廟通りの一つ先に通された通りが、横浜中華街のメインストリートである中華街大通りです。

長安道沿いには、”中華街の名称はじまりの門”ともいえる善隣門があります。

かつては横浜の中華街も、今の神戸の中国人街と同じく”南京町”と呼ばれていた時期を持つようですが、昭和半ばに善隣門が作られた際、門の扁額に”中華街”と掲げられたことによって、やがて”横浜中華街”と呼ばれるようになったといういきさつがあります。

その意味での”中華街のはじまり”がここにあるのですが、この善隣門前の交差点も、やはり五差路となっています。

善隣門の奥に伸びた中華街大通りの他、

開港道へ向かってまっすぐ伸びた長安道と(隣にある建物は神奈川県警の加賀町警察署です)、

加賀町警察の左隣(西隣)に通され、横浜公園・横浜スタジアム方面へと伸びた北門通り(通りの端にある門は中華街北門=玄武門です)、

中華街の西門=延平門(JR石川町駅中華街口方面)に向かって伸びた西門通り、

関帝廟通り方面に向かって伸びた道です。

開港道方面へ

善隣門の先で、長安道は再び地味目な道となります。すぐ先には中華街大通りに並行に通され、開港道と繋がっている広東道があって、

その先で、角に公衆トイレがある三叉路へと繋がりますが、このまま道なりに進むと開港道と結ばれています。

一本隣、公衆トイレの反対側に通された通りは、周囲の区画に合わせて作られた通りである海河道かいがどうが、西門通り等と並行に通されています。

アクセス

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