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“開港地・横浜”と東海道 -馬車道エリアの発展-
“馬車道”の誕生
横浜開港後の幕末期、既に横浜港と東海道・神奈川宿(神奈川湊)との間は陸路でも海路でも結ばれていたのですが、1869年(明治2年)に横浜・東京間が馬車交通によって結ばれたことを契機として、”現在の馬車道商店街(馬車道駅)エリア”にとっての、”馬車の停車場”としての繁栄がスタートします。
参考:“横浜”までの海路と陸路
鉄道開通(1872年=明治5年)に至るまでの僅かな期間、”馬車の停車場”は開港地・横浜と東海道を(新規に作られた”横浜道”経由で)結ぶ交通の拠点となり、以降の一帯に数々の”日本初”(ex.明治2年のアイスクリーム、明治5年のガス灯など)をもたらすと同時に、金融街としての馬車道・本町通りの発展を促す契機となりました。
明治一桁年代に交通拠点だった”馬車道エリア”が迎えた商取引の黎明期は、やがて明治10年代~20年代にかけて生糸取引と金融業の繁栄期へと繋がり、続く明治30年代に訪れることになる、夜店を含む商店街としての繁栄期への礎となっていきます。
交通拠点の推移
ただし肝心の交通拠点自体はというと、”馬車から鉄道へ”という交通手段の推移を契機として、東西を結ぶ大動脈である東海道に吸い寄せられるように北上をはじめることとなりました。
馬車の発着場としての”馬車道”エリア→初代横浜駅(現在のJR桜木町駅)→二代目横浜駅(現在の高島町エリアに作られた駅)→三代目横浜駅(現在)という形ですが、この推移で常に意識されていたのが”開港地・横浜と(五街道の)東海道との距離”です。
要は”国内で既に成熟しているもの”(輸出品とその産地)と、”新たに外から流れ込んでくるもの”(輸入品とその産地)、それぞれを消費地と結びつける形の動線が”貿易港”を含めて調整されることになったという形ですね。
この点、開港後の横浜では「東西を結ぶ大動脈である東海道に乗せられるか否かが、貿易港としての横浜の命運を左右する」と考えられていた節があったようです。
当然といえば当然の話しではあったでしょう。
「揚陸した舶来品に行き場はあるのか」、反対に「国内の生産物を海外へ運ぶルートは確保されているのか」という点が死活問題になるというとらえ方は今現在の感覚からしても至極尤もなところですが、列強相手の通商が軌道に乗れば乗っただけ露になって来るこの問題は、裏を返せばかつての横浜のロケーションや、欧州各国との精神的な距離を物語るものでもありました。
参考:横浜駅と観光地・横浜
居住区の整備 -山下町から山手町へ-
開港期の横浜港の可能性自体は当時の日本、さらには横浜にとって、まだまだ全くの未知数でした。
もちろん、はじめからそれがゼロもしくはマイナスでしかないと判断されたのであれば開港も何もあったものじゃなかったとしても、何を対価としたときにどの程度の利益が得られるのかといった”開港による具体的なメリット”については全くの未知数だった、”そもそも”を言うのであればその部分が全くの未知数であり、なおかつ開国・開港自体がネガティブに捉えられている節があったからこその横浜開港(1859年=安政6年)ではあったんですね。
この点、開国・開港をネガティブに捉える士族・浪人層の他にも、”開国派”の士族層、さらには”未知の文明”への好奇心を抑えることが出来ない、あるいは横浜にて”一攫千金”を夢見る一般庶民層という形で混沌としたものを抱えていた日本側に対して、開港当初のとある外国人居留民には「横浜は出島と同じだ」と捉えられていた節もあったようです。
確かに、もし開国・開港の具体的メリットがはじめから明々白々だった(かつ、デメリットはないに等しいものだと判断された)のであれば、その時にはおそらく横浜や神奈川ではなく、江戸が開港地となっていたことでしょう。
「そうではなかった」時点で、”かつての出島”並みかどうかはさておき、横浜開港が少なからず”居留民封じ込め”を狙ったものだったと(当の居留民たちに)捉えられたとしても、それはそれで至って自然なことではあります。
参考:激動の時世
ということで「”市歌を制定する“、”記念会館を創設する“といった形で、開港50周年を大々的に祝すような成長を遂げることとなった」という答えが出るまでにはまだ少々の時間を要すことになるのですが、ともあれ”横浜開港”の既成事実化によって、開港地では貿易関連のインフラ整備同様、貿易にかかわる人たちが居住するための居住区の整備が急務となりました。
開港場と付近の発展 -近代黎明期の山下町-
現在山下公園(横浜市公式サイト)がある山下町は、開国に続く開港が転機となる形で、外国人居留地として近代が始まります。
開港当時は”山下公園”は存在せず、付近は海岸線になっていたため、横浜開港(1859年=安政6年)以来、海岸線沿いに居留地が構築されていくという形での発展が進みました。
その結果、”開港地・横浜”の海岸線には、日本との間に通商条約を締結した諸外国の銀行や商館がひしめくようになります。
貿易港一流の活況を呈するようになった山下居留地では、1873年(明治6年)には現在のホテルニューグランドの前身であるグランドホテルが開業し、1875年(明治8年)には街中にガス灯が整備されるなど、国際色豊かな貿易の街としてのインフラも華やいでいきますが、”当時の横浜”の繁栄は法的な面からも進みます。
“横浜史”ではなく”日本史”の話しとして、1894年(明治27年)、外相陸奥宗光はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、開国後の長らくの懸案事項であった不平等条約の一部改正(領事裁判権の撤廃)に成功するのですが、その結果、日本国内に居住する外国人に内地雑居(居留地以外の地域への居住移転の自由)が許可されます。
ここに”外国人居留地”の有名無実化が始まるのですが、1899年(明治32年)には反対に日本人一般にも外国人居留地内への移動が許可され、”内地”、および外国人居留地内の法的な敷居が事実上撤廃される運びとなりました。
参考:開国後の出島と出島の復元
時あたかも彼我公園(かつての横浜公園)での“日本代表”vs外国人居留民の国際試合が注目を集めた時代、旧制一高野球部や慶應義塾ラグビークラブの”代表戦”に挟まれる形で実現した共存共栄時代の到来によって、開国後の居留地社会は一つの理想的な帰結点に到達します。
(参考:中区制50周年記念事業実行委員会『横浜・中区史』昭和60年2月1日 他)
山手居留地のはじまり
居留地は開港場の近場に設けるべきだということで、まずは現在山下公園や横浜中華街があることでおなじみ山下町エリアに”外国人居留地”としての白羽の矢が立つことになったのですが、横浜港を基点とした貿易自体が右肩上がりの勢いを持っていた時代、ほどなく山下居留地は手狭となります。
この時に”次の居留地”候補となったのが、現在中区内で山下町に隣接する山手町エリアでした。
開港以前の横浜山手は所々に畑が点在する、原野とも山林ともつかない丘陵地だったようですが、開港の翌年(1860年=万延元年)、開港場付近の山下町居留地に居住する外国人によって新しい居留地として着目されたことから、今日につながる歴史が始まります。
はじめは「山手を新しい居留地に」という居留民側からの申し出に対する返答を渋っていた幕府だったものの、結局その要望を受け入れる形で領事館・公使館の移転用地となり、居留民側からの要望があった翌年(1861年=万延2年)には、”横浜山手”が外国人居留民に開放されました。
参考:近代横浜の始まり -開港地での共存-(2024.3.18配信予定)
幕府が”受け入れ”を容認した背景には、当時の激動の時勢の他(この点については別記事”近代横浜の始まり -開港地での共存-“で進めます)、「山手移転を受け入れることによって神奈川(現・横浜市神奈川区の旧東海道沿い)を立ち退いてくれるのであれば、それはそれで好都合ではないか」という、どちらかというとネガティブな本音もあったようです。
交通の便が良くなかったことによって横浜が開港地に指定されたという、”そもそも”の事情と軌を一にする本音ですね。
元々は”居留民”も一枚岩ではなく、諸外国の公使や総領事は山手移転には積極的ではなかったようですが(商人たちとは違って、”神奈川”に固執していたようです)、やがて各国商人の横浜居住が進み、さらに旧来(鎖国時代)より幕府と付き合いのあったオランダが率先して動く形で”領事館の山手移転”を提唱すると(もっとも、オランダは公使館も領事館も山手には移転させなかったようです)、他国も「もはや横浜開港を認めざるを得ない」として、これに追随する形で山手への領事館・公使館移転を希望します。
余談として、”山手”が外国人居留民に解放された年(1861年=万延2年)、イギリスは早速海軍用地として横浜山手の地を借り受けていますが、続く1866年(慶応2年)には、現在港の見える丘公園がある地にイギリス公使館が作られました(同地には、後にイギリス総領事の公邸が置かれます)。
これが、現在の”丘公園”中心部とイギリスの縁のはじまりです。
元町商店街の誕生
きっかけ
“安政の五か国条約”締結によって開港場に指定された横浜村では、開港に向けた波止場や運上所の設置を筆頭として関連施設の建設が始まりますが、この時に元々横浜村に住んでいた住民の強制移住も同時に進みます。
時あたかも”安政の五か国条約“批准による開港(1859年)直後の話しですが、横浜村を新たに貿易港として拓くため、関連施設の用地としてその場を空ける必要があったんですね。
当然、移住の当事者的には複雑な思いも多々あったことでしょう。
移転後の住民たちは、移転先において「ここは元々横浜村の住民だった自分たちが住む村なんだ(ここが本当の横浜村だ)」ということで、当初は新天地を”横浜本村=横浜元村”と呼んでいた時期もあったようですが、やがて正式に”元町”と地名変更された地では、ほどなく山手居留地の外国人居留民たちも利用する元町商店街としての歩みが始まりました。
山手居留地も”元町の商店街”も共に横浜開港を契機として誕生し、以降の歩みを共にします。
初期元町の発展
初期の元町の特徴としては、国際色が豊かな商人の街として栄えた表通り(現在の元町商店街)と、その傍で形成される職人の街(元町商店街隣に通された、現在の元町仲通りとその付近)が対になっていたことが挙げられます。
良質かつ豊富な湧水を利用することによって興された給水業、さらには西洋瓦・レンガの工場があったことのほか(現在の元町公園内とその周辺に、かつての面影が残されています)、”舶来品を扱うおしゃれな街”イメージと共に、”職人の街”風の雰囲気を醸していたのがかつての元町だったようで、例えば現在の元町商店街エリアで販売される家具などは、全て商店街付近(山手側の一帯)で作られていました。
販売される家具や日常雑貨の高級化(商品を求めるお客さん側のニーズの多様化・微細化)に歩みを合わせる形で製造過程も分業化しますが、製造過程の分業化は職人の専門分化を促すと同時に、”商”(オーダーを受け、製品を販売する)と”工”(オーダーされたものを作る)の分業も促しました。
そのことがオーダーに忠実な完成品製造を可能とした一方で、当時の元町が持っていた”モノづくりの街”としての一面を成長させて行ったんですね。